第165話 蟻の日
この国には「蟻の日」という特別な祝日があった。
年に一度、必ず訪れるその日。
カレンダーには赤い印がついているのに――
普通の祝日とは逆で、普段休みをもらっている人たちが一斉に出勤しなければならない日だった。
サービス業も、工場勤務も、学校の先生も、病院の看護師も。 普段はシフトで休んでいるその日を、必ず「蟻の日」として働かされる。
それは一種の国民行事だった。
「今日は蟻の日だからね。いつも支えてもらっている分、群れのために尽くさなきゃ。」
テレビではコメンテーターがにこやかにそう言う。 街には「蟻様ありがとう」の垂れ幕が並び、人々は蟻のバッジを胸に付けて出勤していく。
僕はといえば、普段は水曜休みだった。 だから今年の「蟻の日」はちょうど水曜に重なり、当然のように出勤命令が下された。
「蟻の日ってさ、要はただの穴埋めだよな。」 同僚がぼそりとつぶやく。
「でも国が決めたことだしな。」 もう一人が苦笑いする。
職場では普段見かけない顔も多かった。 別部署の人間や、管理職ですらデスクに座って書類をさばいている。
廊下では、慣れない動きでコピー機をいじる支店長がいた。 「あっ……紙詰まり……」と困っている顔が妙に滑稽だった。
でも、これが国のやり方だった。
群れは、誰かが常に動いていないといけない。 働けるものはいつでも、蟻のように穴を埋め、群れの形を維持しなければならない。
夜、帰り道。
街灯の下を、小さな蟻たちが列をなして進んでいた。 それを見て、少しだけ胸が温かくなった。
(やっぱり俺たちも同じなんだな。誰かが休んでも、誰かが必ず動く。)
家に帰ると、ニュースでは「蟻の日労働達成率」が発表されていた。 今年は例年よりも2%高い。
それを誇らしそうに伝えるキャスターの笑顔を見て、僕も思わず笑みを浮かべた。
――そうやって僕たちはまた、ひとつの群れとして強くなっていくんだ。
そのうち心のどこかで、(でも、これでいいのかな)なんて微かな疑問がよぎった。
でもすぐに打ち消した。 蟻の日に、そんなことを考えるなんて失礼だ。
それより、来年もまたきちんと働けるように、明日も群れの一員として頑張ろう。
この国では、それが何より大切なことだから。
「蟻さん、いつもありがとう…。」