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第164話 蟻を笠に

この国では、何をするにも蟻の名前を出すのが最も効果的だった。


「蟻のためですから。」 「蟻に恥じぬ行いを。」


それは魔法の言葉で、どんな要求も押し通す免罪符になっていた。



スーパーでレジに並んでいたとき、前の中年男が店員に大声を張り上げ。


「なんだその態度は! お前、それじゃあ蟻様に対しても同じような接し方をするつもりなのか?」


たったそれだけで、若い店員は青ざめて土下座寸前の謝罪を始めた。 周囲の客たちも、男を白い目で見るどころか店員を冷ややかに見下していた。


「蟻様を馬鹿にするなんて……。」 「教育がなってないわね。」


男は鼻を鳴らし、レジ袋を肩にかけて堂々と去っていった。




別の日、通勤電車の中。


若い女が中年男に痴漢されたと泣き叫んだ。 男は慌てず、涼しい顔でこう言った。


「誤解です。この子の香りが蟻に似ていたので……どうしても確認したくなっただけです。」


すると車内は妙な空気に包まれた。 やがて別の乗客が冷たく女を諭した。


「それは女性の方が配慮するべきだわ。」 「そうよね、蟻様の香りなんて、そんな香水つけちゃいけないじゃない。」


女は「違います」と何度も訴えたが、最後には震える唇を閉ざした。




またある日は、会社でこんなことがあった。


同僚が資料を抱えて戻ってきた。 「今度うちに来いよ。蟻様のご加護を得る講習会があるんだ。」


テーブルには、蟻を模した黒光りする小さな像と、教材費として請求された高額の契約書が置かれた。


「これさえあれば営業成績が三倍になるってよ。蟻様がそうおっしゃったんだ。」


断れない空気がそこにあった。社内は皆、笑いながら契約書に印鑑を押していく。 「蟻様に誓うんだもんな、そりゃ間違いないさ。」 「蟻様のためだ、投資は惜しむなって言うしな。」


気づけば僕もペンを握っていた。 押さない理由が、なかった。




放課後の公園では、小学生の集団が蟻の行列を取り囲んでいた。


「ねぇ、見て。これ全部、働いてる蟻さんだよ?」 「すごいねー、将来は僕も蟻みたいに働くんだ!」


別の子が自慢げに言った。


「うちのパパなんか、蟻様に直接お布施してるんだぞ。だから偉いんだ!」


子どもたちは目を輝かせ、蟻の列を見守った。 その眼差しはもう、疑問を持たぬ従属の輝きだった。




帰り道、舗装道路の隙間を歩く蟻を見つけた。


(結局、みんなこれを隠れ蓑にしてるだけじゃないか。)


誰もが「蟻様のため」と言いながら、自分の欲望や保身のためだけに蟻を利用している。 それを指摘する声はもうどこにもなかった。


ふと、その蟻を踏み潰してみようかと思った。


でも、靴を上げた足が途中で止まった。


――だって、何をされても、蟻には逆らえない。


僕はそっと足を戻し、その列をただ見送った。




「ピピーッ!そこの君!蟻殺傷未遂で逮捕する!」


鋭い笛の音に振り返ると、制服姿の男たちがこちらへ歩いてきていた。

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