第16話 静かなる叫び ― 握り潰された内部告発
告発文書が、ひとつのUSBにまとめられていた。
送信者は、厚生労働省生物環境調整局の一職員。
仮名で署名されたその文書には、「人間の体内に設置された蟻コロニーに関する調査報告」や、「順化対象リスト」「法案裏工作の経路図」など、信じがたい情報が詰め込まれていた。
──この国は、既に“人類のための国”ではない。
差出人は文末でこう記していた。
「すでに私は監視下にある。
この情報が公になる可能性は、限りなく低い。
だがもし、まだ“順化していない”人間がいるのなら。
どうか、“忘れないで”ほしい。
この国が、静かに乗っ取られたということを。」
フリージャーナリスト・間嶋は、それを手にした夜、姿を消した。
翌朝、彼のSNSアカウントはすべて削除され、検索にも名前はヒットしなくなった。
数日後、所属していたネットメディアも突如「閉鎖」の張り紙を残し、社員は全員「円満退社」と報じられた。
誰も、騒がなかった。
メディアは沈黙し、国民もまた、静かだった。
一方、議事堂では「市民の誤情報拡散に関する緊急法案」が可決されていた。
「虚偽の情報で混乱を招いた個人や団体に対しては、厳正な対処を行います」
罰則:特別環境適応施設への隔離処分、または労務補完義務の課される“再教育措置”。
演説した議員は、以前告発文に名指しされていた一人だった。
目の焦点は合っておらず、笑顔は貼り付けたように歪んでいた。
「逃げ場がない」
そう語ったのは、かつて内部告発を受け取った一人の記者だった。
「ニュースは操作され、ネットは監視され、書店には“生物との共棲”を賛美する本ばかり。
家族の中にも、同僚の中にも、“順化された誰か”がいるかもしれない。
信じられるのは、もう自分の思考だけだ。
それすら、いつ侵されるか分からない。」
今、街からは確かに言葉が消えつつある。
目を見開いたまま通勤する人々。
ニュースで語る言葉が、どれも似通った語尾。
スーパーの陳列棚に並ぶ「協生食糧」や「外骨維持剤」に、誰も驚かない。
そして夜、アパートの一室で独り泣きながら
ひとりの市民が呟いた。
「誰か、まだ順化していない人……いますか……?」
その声は、壁に吸い込まれていった。
この世界に、もはや“異常”など存在しない。
なぜなら、正常を定義する側がすでに──もう人間ではないのだから。