第159話 蟻になるための手術
この国では、蟻に近づくことが最高の名誉とされていた。
蟻は神聖な存在であり、その社会は完全な秩序に守られていて、無駄がなく、利己もない。 人々はその理想に憧れては、やがて自らの身体を蟻へ近づけるための整形手術を受けるようになった。
骨を削り、膝が逆に曲がるように関節を変形させ、四足歩行が自然にできるよう調整する。 皮膚には黒い装甲のような文様を入墨し、触角を模した感覚器官を頭部に移植することさえあった。
「完全に蟻になった者」は名誉市民として称えられ、一代で家族の地位を大きく押し上げるほどの栄誉を手にする。 街の広告塔には、手術前後の比較写真が誇らしげに掲げられ、人々は憧れの眼差しでそれを見上げた。
ただ一つだけ不可解なことがあった。 完全な手術を終えた者は、その後二度と公の場に姿を見せないのだ。
「それだけ蟻として忙しいのだろう」「神聖な役割を与えられているのだ」と皆は言った。 だが岡村はどうしても腑に落ちなかった。
三十五歳の岡村は、少年の頃から蟻を理想として育った。 親もまた蟻に近づくための小規模な整形を繰り返していた。 社会で成功するには、それが最も手っ取り早い方法でもあった。
岡村はついに決意する。 自らも「完全なる蟻」になるのだと。
手術は長く、苦痛を伴った。 医師は骨を切り出し、腱を移植し、血管を繋ぎ直す。 手術室の天井には蟻の群れを描いた美しいモザイク画があり、岡村は朦朧としながらそれを見つめた。
何度も意識を失い、目を覚ますたびに、身体は少しずつ蟻に近づいていった。 四足で歩くのが自然になり、声帯を調整されて人語がうまく話せなくなった。 それでも岡村は満足だった。
(俺は……蟻になる……人間という未完成から、ついに脱却できるんだ……)
最終段階の手術が終わると、岡村は目隠しをされたままどこかへ連れて行かれた。 冷たい風が頬を撫でる。 コンクリートか石の壁を感じる細い廊下を進み、やがて大きな扉が開く音がした。
目隠しが外れる。
そこには薄暗い巨大な地下空間だった。 床はむき出しの土で、無数の小さなトンネルが走っている。
(……蟻の巣……?)
だがそこにいたのは、かつて完全な手術を受けた先達たちだった。 彼らは皆、蟻に似せた異形の姿で四足歩行し、黙々と土を掘り、小石や枯葉を運んでいる。
白衣の男がそっと岡村の背に手を置いた。 その声は、底なしに優しく、恐ろしいほど穏やかだった。
「おめでとうございます。これであなたも立派な蟻です。どうか安心してください。もう何も考えなくていいのですから」
岡村は愕然とした。 ここは名誉市民として称えられる場所などではない。 人間の社会から切り離され、まるで本物の蟻のように管理される場所だったのだ。
周囲の『蟻人間』たちは、既に自我を失ったのか、ただ静かに作業を続けている。 岡村は必死に声を発しようとしたが、変形した声帯からは言葉にならない濁音が漏れるだけだった。
白衣の男は、その頭を子どもをあやすように撫でた。
「言葉はもう不要です。これからは群れのために、ただ生きてください」
それから岡村は、毎日土を運び、巣を広げ、餌を蓄えた。 誰も褒めてはくれないし、誰も叱りもしない。 やがて自分が何者だったかさえ、ほとんど思い出せなくなっていった。
ただ漠然と、胸の奥を小さな蟻が這い回るような鈍い痛みだけが残っていた。
それが人間だった頃の最後の痛みなのか。 それとも、蟻になりきれなかった名残なのか。
もう知る術もなかった。
栄誉の名のもとに奴隷になり、完全を目指すことでかえって不完全になる――
この国は、いつだってそんな滑稽で悲しい世界だった。
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