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第158話 蟻になりたくて

この国では、人間がいつか蟻になることを夢見る者がいる。

人々は蟻を神聖視し、また実際に蟻の社会は厳格で秩序立っており、憧れの対象だった。


田中誠一、四十歳。

中堅商社の営業部で課長職に就いていたが、ある日ふっと思った。


(俺はこのまま人間として死んでいいんだろうか……)


田中には昔から、蟻に対する奇妙な憧れがあった。

列を乱さずに黙々と仕事をし、与えられた役割を全うし、余計な感情も持たず、ただ巣のために生きる蟻たち。

なんて清々しい生き物だろう、と。


思い返せば――田中は人間関係にいつも疲れていた。

部下への叱責で胃が痛み、上司のご機嫌取りに神経をすり減らし、家に帰れば家族ともどこか噛み合わない。

感情をぶつけ合い、誰が正しいかと張り合い、見え透いた建前で取り繕う人間たち。

その醜さに、田中はずっと辟易していた。


(蟻には、そんな面倒は一切ない。ただ働き、ただ群れのために生きる。それだけでいいんだ……)


そして四十の誕生日を過ぎた頃、ついに決意した。


「俺は、蟻になる」


思い立った田中は辞表を提出し、会社を辞め、家財をすべて処分し、山奥へ移り住んだ。 そこには人間はいない。ただ蟻がいた。


彼は二十年間、常に蟻を観察し、蟻のように行動した。

同じルートを何度も行き来し、小石を運び、巣穴を掘り、自分で決めた規律を一切破らなかった。


雨が降れば雨に打たれ、腹が減れば葉の裏を舐め、夜になれば蟻の巣のそばで横になる。

そう…いわば仙人のような生活だ…


五十歳を過ぎた頃には、田中はほとんど言葉を話さなくなっていた。

代わりに地面を這い、蟻のフェロモンの跡を探し、道しるべを必死に辿った。


六十歳になったある日。

ついに田中は蟻の行列に加わることを許された――ような気がした。


列の中に身を潜め、同じ方向へ歩く。

誰も彼を止めない。蟻たちは彼を排除しない。

田中はそれだけで嬉しかった。


(俺は今、蟻だ……。ついに蟻になれたんだ……!)


それから田中は、蟻たちと共に毎日を働いて過ごした。

自分なりに小枝や石を運び、巣の周りを掃除した。

褒められることも、別に報酬もない。だが奉仕そのものが、最高の喜びだった。


やがて七十歳を迎えるころ、田中の体は思うように動かなくなった。

膝が痛み、腰が曲がり、以前のように四つん這いで進むのもやっとだ。


そしてある日、彼は蟻の列の端で倒れ込んだ。


蟻たちは構わずに彼の身体を踏み越えていく。

冷たい土の上で、田中は満ち足りた表情を浮かべた。


(ああ、俺は……本当に……蟻として……生き切った……)


そのまま静かに目を閉じ、二十年かけてようやく叶えた蟻としての日々を、終わりにした。


けれど翌日、蟻たちは何事もなかったようにいつもの行列を作り、また働き続けていた。


人間が一人、蟻を夢見て一生を終えたところで、世界は何一つ変わらなかったのだ。


田中が本当に蟻になれたかどうかは、定かではないが、きっと仲間に加わることで寂しさを紛らわしたかったのだろう…。


蟻たちが迷惑がってなければ良いが…。

いつもお読み頂きありがとうございます。

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