第157話 蟻貨政策
この国では、かつて蟻はただ神聖視される存在だった。
しかし、蟻はあまりにも増えすぎた。
家屋の床下は蟻に食い尽くされ、倉庫の穀物は跡形もなく消えた。町じゅうは黒い筋で覆われ、異様な光景が広がっている。それでも人々は、蟻を殺すことを恐れた。神を殺すわけにはいかなかったのだ。
そこで政府は、苦渋の策を打ち出した。
《蟻貨政策》——神聖なる蟻を、価値ある貨幣として流通させ活用すること。
蟻を貨幣と認めれば、人々は進んで蟻を崇め、殺すことなく取引に用いるだろう。神聖な蟻を扱うならば、大衆もまた大切にせねばならぬ。政府はそう考えたのだ。
蟻はただの昆虫ではない。それぞれが「気」を宿し、その生き様が価値の源泉となっている。だから蟻を粗末に扱うことは、貨幣を侮辱するのと同じ禁忌だった。
ある日、街角で老人がつぶやく。
「わしらはいつから、こんな生き物を価値の尺度にせにゃならんようになったんじゃろうか……」
しかし、それは蟻の大量発生に対応した政策の狙いだった。蟻の数を調えるため、まず蟻を迎え入れ、その価値を定め貨幣の代わりとしたのだ。
その朝、田村は出勤前に財布を開け、小袋の中の蟻たちを見つめた。数十匹が小さく蠢いている。今や給料は、この生きた蟻で支給されていた。
「だいぶ減ったな」
昨日、スーパーで買い物をするとき、小袋を差し出し量りにかけられ二十匹分が渡された。お釣りにはまだ元気な蟻が十数匹。
「最近、質が悪くなったな」
同僚が愚痴を零しながら、パンと一緒に財布の蟻をいじる。弱った蟻は価値が下がらぬうちに、早めに使うのだ。
夜。田村は家で家計簿をつけ、机の上に蟻の小袋を置いた。
(これが……神として崇めていた俺たちの姿か)
護符や祈祷の土に頭を下げていた頃は、こんな日が来るとは思わなかった。けれど今、通貨となった蟻を数えるたびに神聖さは剥がれ落ちていく。
人々は平然と言う。
「蟻様が足りねえから、もう少し稼いでこなきゃな」
「子どもの学費、蟻様で払えそうか?」
かつて神であった蟻は、いつしか人間の欲を満たす道具となった。
そして気づけば、家中に蟻が溢れていた。神聖な蟻を貨幣にし、それを減らそうと数えた人間たち。価値が生まれた蟻を集め、むしろ増やそうと試みる者も現れた。
こうして人間は蟻を貨幣に変え、暮らしを繋いだ。
だがその代償を、誰も真に理解してはいない。
そして人間は、神として崇める蟻たちを自らの欲望のための道具としか見ていないことにも気づかず、また同じ過ちを繰り返すのだった。
浅ましくも、愚かな動物として。
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