第155話 出産祝い
この国では、各コロニーの女王蟻が出産するたび、親類縁者や友人知人がこぞって「蟻の出産祝い」を贈るのが習わしだった。
祝いといっても、単なる品物ではない。 小瓶に詰められた「蟻祈祷の土」や、丁寧に押印された蟻の護符。 それを赤子の寝床の下や枕元に置いておくと、蟻の加護が宿り、子どもの気が整って健やかに育つ――そう固く信じられている。
「いやぁ……またかよ……」
職場の給湯室。黄ばんだ蛍光灯の下、知り合いの田村が紙コップにコーヒーを注ぎながら、乾いた声で吐き出した。
「今年だけで……もう百件超えたぞ?祝いに駆けつけたの。どんだけ金が飛んだか分かりゃしねぇ……」
蟻の護符や祈祷土を贈るだけでは済まない。きっちり祝儀を包むのが常識で、それが少ないと「子どもの運気を潰す気か」などと陰で囁かれる。 そんな陰口を恐れて、みんな無理をしてでもそれなりの額を包む。
田村は財布を取り出し、中を覗いては静かに息を吐いた。 薄い札束の感触が指先に寂しく伝わる。
「俺だってローンで首が回らないのに……娘も塾行かせなきゃだし……」
(――誰のための祝いなんだか。)
ふと窓の外を見る。裏路地には黒い蟻が列を成して、舗道を黙々と行進していた。 祈祷の土も護符も、突き詰めればああしたどこにでもいる蟻の力頼みだ。 だがそれを口に出した途端、異端者扱いされる。分かりきった話だ。
田村は小さく苦笑し、コーヒーをすすった。 渋い苦みが、飢えた胃に重たく沈んでいった。
その夜。 田村は帰宅すると、食卓に広げた家計簿を何度も見返した。 水道代、電気代、塾の月謝、そしてローン。 数字の並びがじわじわ胸を締め付ける。
(……これじゃ、来月どころか、今月も危ねぇ……)
意を決したようにスマホを取り、求人サイトを開く。 夜勤限定、短期高給――スクロールすると「蟻奉仕清掃アルバイト」の文字が飛び込んできた。
《蟻の通り道整備/祈祷土掘削・箱詰め》
(嫌がる奴も多い仕事だが……背に腹は代えられねぇ。)
スマホを置き、ふと居間を見やると、娘がランドセルを床に投げ出し宿題をしていた。 そのすぐ隣に、先日誰かに贈られた蟻の護符が飾られている。
(――結局、俺たちはずっと蟻に頭下げてるんだな。)
思わず笑いがこぼれ、けれどその笑いはすぐに溜息へ変わった。
翌日。 支給された作業服に袖を通し、田村はまだ夜気の残る道を歩く。 持たされたほうきを慎重に動かし、蟻の列が崩れないように静かに掃き進めた。
足元を黒い蟻が横切った。 田村はそっと頭を下げると、また箒を動かした。
夜勤を終えた帰り道。 ポケットの中の封筒はずっしりと重い。久しぶりに握る額の報酬だった。 けれど同時に、疲労で指先までじんじん痺れている。
ふと、娘の寝顔を思い浮かべる。 今日も護符の下で寝ているのだろう。 もう少ししたらランドセルにお弁当を詰めてやれる。まだ頑張れる。
田村は微かに笑い、家路を急いだ。
そのときスマホが鳴った。 画面には後輩の名が光っている。
「もしもし、先輩! お久しぶりです」 「おう、どうした?」 「実は……家のZ49-コロニーの女王蟻が出産しまして……」 「……あぁ、そうか……」
また、出産祝いだった。 田村は笑うしかなかった。疲れ果てて、どこか壊れたように…。
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