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第153話 切ない糸

この国では、蟻を殺すことは重大な犯罪とされている。

それがたとえ、偶然の一歩であっても。


ある日の午後、小さな住宅街の交差点で、それは起きた。

小学五年生の優斗は、ランドセルを揺らしながら駆け足で角を曲がった。


「わっ!」


目の前を小さな蟻の列が横切ったのを見つけ、慌てて足を止めようとしたが間に合わなかった。

――パチン。

わずかな感触が靴の裏を伝い、次の瞬間、蟻は潰れて黒い染みとなっていた。


血の気が引いた。

その場で震える優斗を、近くの電柱に設置された監視装置が無機質な光で捕らえていた。


翌日、役場から封筒が届いた。

厚い紙に印刷された正式な文書。


《未成年蟻殺傷違反 第43条に基づき、罰金7,200,000円を徴収します》


母親は手紙を読むと、膝から崩れ落ちた。

台所の床で顔を覆い、小さく嗚咽を漏らした。


優斗の小さな手が、恐る恐る母のエプロンの端を握った。

「……ごめんね、ママ…ぼく、わざとじゃ……」


「わかってるわよ…。」

母は優しく微笑み、震える指先で優斗の髪を撫でた。

しかしその瞳の奥には、どうしようもない影が揺れていた。


その夜――


母はひとり台所に立っていた。 蛍光灯の冷たい光の下、シンクには洗い終わった皿が乱雑に並び、床には濡れた雑巾が落ちている。


母はその真ん中で、小さな声で嗚咽を堪えていた。


「……どうしたら……どうしたらよかったの……」


震える肩。 押し殺した涙が頬をつたう。


気づけば、彼女の右手には包丁があった。 ぬれた手で握る刃は、わずかに金属音を立てて傾き、流しに当たった。


母は包丁を握りしめたまま、必死に声を出さないよう唇を噛んだ。 目を固く閉じ、吐息だけが切れ切れに漏れた。


(私さえ……もっとちゃんとしてれば……)


ぐっと指に力が入る。 刃の冷たさが手のひらに痛みとなって滲む。


――でも。 次の瞬間、優斗の幼い笑顔が頭をよぎった。


「ママ、お弁当ありがとう!」


その声があまりにも優しくて、包丁を握る力が抜けた。 母は崩れるようにその場に膝をつき、刃はカランと音を立てて床に転がった。


肩を抱き、台所の冷たい床の上で声を殺して泣き続けた。


――その泣き声を聞く者は、もう誰もいなかった。



数日後、家には差し押さえの札が貼られた。

家財道具は次々に運び出され、母は最後の冷蔵庫が持ち去られるのを黙って見送った。


そして夕方、役場の車が家の前に停まった。

黒い制服の役員が二人降りてきて、優斗の肩にそっと手を置いた。


「優斗くん。これから少しの間、蟻奉仕施設でお手伝いをしてもらうからね。」


母は必死に涙をこらえ、笑顔を作って手を振った。

優斗は小さく頷き、役員に連れられて車へ乗り込んだ。


車窓越しに見た母の顔は、いつものように優しくて、だけどどこか壊れそうだった。


「ここが君の新しいおうちだ。」


鉄柵に囲まれた施設の門が軋んで開くと、中には広大な暗い空間が広がっていた。

そこら中に蟻の巣穴がぽっかり口を開け、黒い蟻たちが地面を這い回っている。


優斗は作業着を渡され、無言のままほうきを持たされた。

言われるがままに地面を掃き、壁を磨き、蟻の死骸をそっと摘んで集めた。


周囲には同じ年頃の子どもたちが、みな無表情で働いていた。

時折、蟻の群れがその小さな体を登っていくが、誰一人としてそれを振り払わなかった。


初めての夜、優斗は硬いベッドに横になっていた。

シーツは薄く、鉄製の枠が冷たかった。

薄暗い天井にはぼんやりとした灯りが滲み、そこを蟻の影が何度も横切った。


(……いつまで、ここに……?)


周囲の子どもたちは皆、無言で寝息を立てている。

小さな身体の上を、いくつもの蟻が静かに行き来していた。


優斗は瞼を閉じた。

眠ろうとしても、胸の奥が痛くて息が詰まる。


(ママ……今どこにいるの? 泣いてない? ちゃんとごはん食べてる?)


こらえていたものが溢れ、静かに涙が頬を伝った。


――その夜、優斗は何度も母の夢を見た。


夢の中の母は、あの日と同じ台所に立っていた。 優斗の好きな卵焼きを作っているのか、白い湯気の向こうで、いつもみたいに微笑んでいた。


「優斗、ごはんよ。早く食べないと冷めちゃうわ。」


そう言って優しく振り返る母の声に、優斗は泣きながら何度も頷いた。


(……帰りたいよ、ママ……もう一度だけ、ママの作ったごはんが食べたい……)


でも、母に近づこうとすると、なぜか脚が動かなくなる。 見上げれば、母の足元には黒い蟻がびっしりと群がっていて、楽しげに触角を揺らしていた。


母は優斗に気づかず、穏やかな顔で蟻たちを見つめていた。


――そこに自分の居場所はなかった。


優斗はその光景をぼんやり見つめながら、涙で濡れた枕に顔を埋めた。 眠れない目は、朝まで何度も母の姿を追い求め続けていた。


やがて夜が明け、再び蟻に囲まれた作業が始まる鐘が鳴った。


その音は優斗の耳には、どこかとても遠く聞こえた。


その疑問を誰に尋ねることもできなかった。

誰も教えてくれない。ただ皆、黙々と働くだけだった。


優斗の頬を一匹の蟻が歩いた。

小さな足が皮膚をくすぐるたび、胸の奥で静かに何かが崩れていった。


彼はもう気づいていた。

ここから出られる日など、きっと永遠に来ないのだと。


「ごめんね…ママ…ありがとう…さよなら……。」

いつもお読み頂きありがとうございます。

もし、よろしければリアクション、感想、ブクマ気軽に頂けますと励みになります。

よろしくお願い致します。

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