第152話 俺の女房です
この国では、種の多様性を尊重する法律ができて久しい。
だから人間と蟻の結婚だって、特に珍しい話ではなくなった。
「こちらが、うちの女房です。」
木戸が誇らしげに紹介した足元には、小皿ほどの大きさの黒光りする女王蟻がいた。
触角を上品に振り、木戸のズボンの裾を軽く撫でて挨拶する。
隣には友人の石山が立っていた。
石山の足元にも、よく似た艶やかな腹を持つ女王蟻がいる。
「いやぁ、奇遇だな。うちのも今日は外出たがっててさ。」
二人は笑い合い、それぞれの女房を連れて近所のテラス席の店へ入った。
テーブルには人間用のワインとローストビーフ、蟻用の生きた幼虫プレートが並べられる。
それぞれの女王蟻は皿に顔を突っ込み、くつくつと咀嚼音を立てた。
そして、ふとした瞬間――
蟻同士がテーブルの下で動いてるうちに、するりと席を入れ替わってしまった。
木戸も石山も、笑いながら仕事の愚痴を言い合っていたので気づかない。
「君も相変わらずたくさん食べるなぁ」
木戸は隣に座った女王蟻の腹を軽く撫でた。
女王蟻はくくっと小さく鳴き、触角を彼の指に絡めた。
石山もまた「今日も綺麗だな」と微笑みながら、自分の膝に乗せた蟻の背をそっと撫でる。
どちらの男も、食事の途中で妻が入れ替わってしまったことに気づいていない。
それどころか、席を替えた女王蟻たちは、嬉しそうに触角を揺らし合っていた。
人間の夫に撫でられながら、互いにそっと脚を触れ合わせていた。
夜が更けて、二組の夫婦はそれぞれの家へ帰っていった。
そしてベッドの上、木戸は変わらぬ愛しさを抱いて女王蟻を撫でた。
もちろんその蟻は、もう彼の女房ではなかったのだが――
どちらの旦那も女房を把握しているわけではなかった。
数日後の夕方、木戸は仕事帰りに石山の家へ立ち寄った。
「おう、また飲もうぜ。うちの女房も連れてきたからさ。」
石山はにこやかに笑い、玄関先で木戸の足元を見つめた。 そこには、つややかな黒光りの女王蟻が木戸のズボンにしがみついている。
「――ん?」
石山は微かに眉をひそめた。 女王蟻の腹の模様を見て、一瞬固まる。
「どうかしたか?」
木戸は首を傾げた。
「いや……気のせいかな。うちのと、ちょっと模様が似てる気がしてさ。」
「はは、どれも同じに見えるだろ? お前だって、最初は区別つかなかったじゃないか。」
そう言って木戸は笑い飛ばした。 だが石山はなぜか気になって、家の奥から自分の女王蟻を連れてきた。
二匹の女王蟻が玄関先で鉢合わせる。 どちらも、ほんの一瞬だけ触角を揺らし、互いを確かめるように脚を絡ませた。
「――あれ?」
石山の顔色がみるみる変わっていった。
「おい、それ……俺の女房じゃないのか?」
「は? 何言ってんだよ、こっちがうちの女房だ!」
二人は次第に声を荒らげ、蟻を抱きかかえるようにして小競り合いを始めた。
だがその間も、二匹の女王蟻は何の緊張感もなく、するするとまた脚を絡めていた。 まるで、この人間たちの怒鳴り声など最初から関係ないと言わんばかりに。
「おい木戸! お前、うちの女房に手ェ出したんじゃないだろうな!」 「ふざけんな、そっちこそ……!」
やがて二人はつかみ合いになり、玄関先で転げ回った。 そのそばで女王蟻たちは、のんびりと互いの触角を優しく撫で合いながら、 どちらがどちらの夫だったかも分からぬまま、静かに共鳴し合っていた。
――そもそも、蟻にとって最初から結婚の境界線など存在してなかった。
そして、最初から二人とも女房の把握なんか、しているようでしていなかった。
怒声だけが夜道に響き渡り、その脇で女王蟻たちは小さな世界を穏やかに築いていた。
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