第148話 蟻殺しの逃走劇
夕暮れ時の住宅街。
田村正人は息を切らし、ただひたすらに走っていた。
その靴の底には小さな黒い血痕――潰れた蟻様の残骸が付着している。
きっかけは些細なことだった。
自宅前のフェロモンロードにいた蟻を、正人はぼんやりとスマホを見ながら、何気なく踏みつけてしまったのだ。
「あっ……」
もう、気づいた瞬間には遅かった。
硬い感触とともに、足元から広がる赤黒い染み。
周囲を見回すも、誰も見ていない。
(……やってしまった。)
冷や汗が背中をつたった。
そして、田村はその場を逃げるように離れた。
その夜のニュースはすぐさま報じた。
『本日午後五時ごろ、蟻山町フェロモンロードにて、違法な蟻様踏殺事件が発生しました。 容疑者は三十代男性で現在逃走中です――』
ニュースキャスターは深刻そうに眉をひそめる。
画面下には犯行場所の地図が赤くハイライトされ、その近所の住民がインタビューに答えていた。
「ほんと迷惑ですよね……こんな事件のせいで子どもを外に出せません」
「ほんと、怖いわ〜、うちのペットが怯えて困るのよね。」
と近所の人々たちは言う。
別のテレビ画面では、よく当たるという人気占い師が事件を取り上げ犯人の居場所を見つけてくれるとのことだった。
「私がカードで占ったところ、犯人はすぐ近所に潜んでいます。おそらく北側の住宅街のどこかに……」
視聴者はSNSで犯人探しに躍起になり、#蟻殺しの男 というタグがトレンド入りした。
しかしその頃、田村は占い師の占いとはまるで真逆の県外にいた。――そして、駅から降りて、細く続く路地裏を黙々と歩いていた。
街角の電光掲示板には、目撃情報も元に犯人のモンタージュ写真と特徴と目撃情報が繰り返し流れている。
「黒のジャンパーにジーンズの男性、身長およそ170センチ。蟻様保護課が捜査中です」
通行人はモニターを見ては小さく首をすくめる。 しかし目の前をその“男”が通り過ぎても、気づく者はいなかった。
やがて正人は古いビルの脇の植え込みに腰を下ろし、荒く息をついた。 頭がぼうっとして、心臓がまだ早鐘を打っている。
(占い師の言う北側なんて、ぜんぜん外れじゃないか……)
自嘲するように笑った。
だが次の瞬間、ふいに耳元で冷たい声がした。
「見つけました。」
肩を掴まれる。振り返ると、そこには二人の蟻保護課の職員が立っていた。 白い制帽に、無表情の瞳。
「や、やめろ……俺は――」
声を上げる間もなく、手早く拘束具が腕を締め上げた。 体は反射的にもがくが、もう無駄だと思って諦めた。
そして…次に目を覚ましたときには、正人は白い光に包まれていた。
寝台の周囲には奇妙な器具が並び、ガラスの中を黒い小さなものが静かに蠢いている。
「安心してくださいね。これから調和が始まりますから」
看護師が優しく囁く。 彼女は小さな容器を持っていて、その中には暗い粒が何百と渦巻いていた。
冷たいものが胸に当てられた。 次の瞬間、正人の体内へ何かがじわりと注ぎ込まれていく。
「っ……あ、あ……」
視界の端ではモニターに地域ニュースが流れ続けていた。
『先ほどまで逃走していた蟻殺しの容疑者は、保護課の手により無事に調和処置が行われたそうです。』
画面の占い師は、まだ「北側にいるはず」と言っていた。 その滑稽さが、薄れゆく意識の中でどこか可笑しかった。
やがて体の奥がざわざわと満ちていく。 そしてそのまま、正人は穏やかな眠りに落ちていった。
外の街はもう何もなかったかのように、蟻様の列が整然と歩を進めていた。 子どもたちがそれを見つめて、無邪気に笑っている。
「ほら、占いまた外れたんだってさ」
どこかで誰かがそんなことを話していた。
この国ではいつだって、蟻様の通り道だけが絶対だった。
そして、田村の記憶からは占い師が外れて自嘲していた記憶も無くなっていったのである。
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素敵な午後になりますように…