第146話 蟻の為の都市開発
住宅街の一角に、計画の看板が立ったのは、初夏のまだ風の涼しい頃だった。
「都市計画第47号 蟻様優先区域整備事業」
看板の隅には、薄いフォントでこう書かれている。
──ここは蟻様の重要な移動ルートにつき、計画地内住民の速やかな移転協力をお願いします。
住民たちは誰も文句を言わなかった。
言えばどうなるか、皆が知っていたからだ。
市役所から説明会が開かれ、補償金の話が出たが、それはあくまで「蟻様のための開発」であり、住民の都合は後回しだった。
議場では一度も「人間の暮らしをどうするか」という言葉は出なかった。
やがて街のあちこちに引っ越し用の段ボールが積まれはじめた。
車庫にはトラックが停まり、作業員たちが無言で荷物を運び出していく。
高橋家の居間でも、家具がどんどん梱包されていった。
「はい、真紀、お人形は自分で箱に入れてごらん」 母親が優しく言う。
小学一年生の真紀は目に涙を溜めていた。 お気に入りだったカーテンも、壁に貼った家族写真も、全部剥がされ、家は空っぽになりかけている。
真紀はおずおずと母親に尋ねた。
「ねえ、お母さん……なんで蟻様のために、わたしたちがおうちなくなるの?」
言った瞬間、空気がぴたりと凍りついた。
母親はひくっと肩を震わせ、すぐに真紀の頬を軽く叩いた。
「そういうこと言っちゃダメ!」
真紀は目を丸くし、唇を震わせたまま、泣きそうになってうつむいた。
父親はテレビを見ているふりをしながら、何も言わなかった。
外では、舗装道路が剥がされ、代わりに蟻様専用のフェロモンロードを敷設する作業が進んでいる。 白い防護服に身を包んだ作業員たちが、慎重にフェロモン溶液を撒き、その上を数え切れない蟻の群れが規則正しく行進していった。
ときおり誰かが窓の外を眺めて、小さく息を吐いた。
この道は人間が渡るためのものではない。 蟻様の通り道。それが何よりも優先されるこの国で、人間の都合はちっぽけなものだった。
引っ越し当日、トラックが家の前から走り去ると、そこに残ったのは裸の土地と、蟻様の黒い列だけ。
真紀は車の後部座席から、静かに触角を揺らしながら家の跡を進んでいく蟻たちを見つめていた。
「ありがとう……」
彼女がそう小さく呟いた声は、誰の耳にも届かず、 蟻様たちはただ黙々と、自分たちの道を進んでいくだけだった。
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