第145話 蟻専用車両
地下鉄の改札を抜けると、駅には大きな案内板が掲げられていた。
「蟻専用車両はこちら」
誰のための案内なのか、そもそも蟻様が文字を読むのかどうか、誰も気にしなかった。
ホームの一番端、ガラスの自動ドアで仕切られた先に、無賃で乗れる蟻様専用の車両が静かに停まっている。
その中では、無数の蟻たちが列を作って移動したり、荷物置き場の上に這い上がったりして、思い思いに過ごしていた。
人間たちは、その車両には決して入らない。
むしろ、敬意を持って距離を置くのが当たり前だった。
だが――。
今日もまた、一風変わった男が現れた。
頭には黒いキャップに自作の触角を括りつけ、体には黒いボロ布を巻きつけている。
そして何より奇妙なのは、その格好のまま四つん這いになり、長い舌でハァハァと息を荒げながら、まるで蟻のように這って専用車両へと入っていったことだった。
周囲の乗客は、思わず目を背けたり、顔を引きつらせたりした。
だが男は気にも留めず、四つん這いのまま、列をなす蟻様たちの横に並んで得意げに顎を上げる。
「どうだ、俺は完全に蟻だろ……?」
電車が発車してしばらくすると、いつものように鉄道監察官が乗り込んできた。
監察官は訓練された冷ややかな視線で車内を見回し、即座にその男に目を留める。
「……またか。」
近くの係員が無言で取り押さえると、男は慌ててバタバタと四つん這いの手足を動かした。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!俺は蟻だ!ほら見ろよ、この脚、この触角――」
「蟻様はそんなこと言わない…。」
係員はそう言い、何の情もなく、その腕をつかんで強引に立たせた。 男は情けなく二足歩行に戻り、うろたえた顔で引きずられていく。
「次は罰金刑に加えて、共生講習も延長ですからね」
監察官の冷淡な声が響く。
車両に残った蟻様たちは、何事もなかったかのように列を作り直し、静かに触角を動かしていた。
人間の乗客たちはスマホを操作しながら、その様子をチラリと見て小さく肩をすくめる。
――いつの時代もこういう愚かな真似をする者はいる。
そしていつの時代も、決まって同じ末路を迎えるのだった。
電車は再び静かに走り出す。 蟻様の車両だけが、今日も平穏そのものだった。
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