第144話 蟻に贈る卒業文集
体育館の壇上には、真新しい制服に身を包んだ子どもたちが整然と並んでいた。
舞台の中央には、卒業証書が積まれ、その脇には小さな壇が設けられている。
壇の上には、ガラスケースに守られた蟻様の巣が静かに置かれていた。
「次、五組の佐々木遥さん」
呼ばれた少女は緊張した面持ちでマイクの前に立ち、一枚の作文用紙を広げた。
「わたしは、これまで学校でたくさんのことを学びました。
お掃除も給食当番も、全部蟻様のためになると思ってがんばれました。
これから中学校に行っても、もっともっと、蟻様のために働ける人になります。」
読み終えると、遥は小さく一礼し、壇上を下りた。
次の子どもも、また次の子どもも、みな同じように「蟻様のために」という言葉を繰り返した。
作文の内容はそれぞれに違っても、最後の一文だけは必ず同じ。
──「これからも蟻様のために生きます。」
壇上では、最後から二番目の生徒――佐々木光が作文を手に立っていた。
小柄でおとなしい少年で、声は少しか細かった。
「ぼくは、これからもっと蟻様のために働けるようにがんばります。
……でも、ひとつだけ謝らなければいけないことがあります。」
会場がわずかにざわついた。
佐々木は不安そうに目を伏せ、声を震わせて続けた。
「ぼく……去年の秋、掃除のときに、気づかずに蟻様をほうきで掃いてしまったことがありました。
そのときは……何も言われなかったけど、ずっと心の中で反省していました。」
会場の保護者席、そして在校生たちのあいだに、妙な空気が流れた。
保母や教師たちが顔を見合わせ、小声で何事かを話し合う。
壇上の巣の奥では、蟻たちの触角が一斉にぴくりと動いたように見えた。
「そんなことがあったんか……」
ぽつりと誰かが呟く。
すると、式の脇で控えていた監視員の大人たちが、すぐさま壇に上がって佐々木の両腕を固く掴んだ。
「えっ……あ、あの……」
佐々木の目が見開かれ、作文用紙が床に落ちる。
「少し来てもらおうか。」
無表情な監視員の声が会場に響く。
子どもたちは誰も声を上げなかった。ただ静かに目を伏せるか、口をぎゅっと結んでいた。
やがて佐々木は連行され、体育館の扉の向こうに消えていった。
その光景を見つめる壇上の巣では、蟻たちがまた触角を微かに揺らしていた。
式は何事もなかったかのように再開され、次の生徒の名前が呼ばれた。
やがて全員の発表が終わり、保護者席からは静かな拍手が湧き上がった。
司会の教師が壇上に立ち、深く頭を下げた。
「それでは卒業生一同、蟻様へ感謝の礼を捧げます。」
子どもたちは全員、巣の方を向いて整列した。
一糸乱れずに揃った動きで、深々とお辞儀をする。
巣穴の奥では無数の蟻が規則正しく列を作り、わずかに触角を揺らしていた。
まるで子どもたちの声や思いを確かめるように。
しばしの沈黙。
やがて教師は満足そうに頷き、穏やかな声で締めくくった。
「これにて蟻和5年度卒業式を終わります。」
体育館はふたたび拍手に包まれた。
蟻様の巣の前で、涙をぬぐう保護者もいた。
子どもたちの瞳は澄んでいた。
そこには疑いも迷いもなかった。
巣穴の奥で微かに蠢く蟻たちは、ただ黙々と自分たちの仕事を続けているだけだった。
それでも人間は信じていた。
自分たちのこの小さな誓いが、蟻様に届いているのだと。
「佐々木…どうなったんだろう…?」