第142話 夢の中
緒方聡は、朝、決まった時間に目を開けた。
壁際のフェロモンランプが淡く灯り、今日やるべき作業工程が光の色で通知される。 緒方はそれを確認し、何も思わず布団から体を起こした。
洗顔、排泄、摂食――。 全ては一定のリズムで繰り返される。 心は平坦だった。何かを欲することも、疑問に思うこともない。
同じアパートの廊下で何人かの住民とすれ違ったが、誰も挨拶はしなかった。 互いに目を合わせることすら稀だ。 感情は不要だった。
職場でも同じだった。 緒方は配布された器具を受け取り、黙々とライン作業を行った。 作業台の端には蟻様が静かに佇んでいる。 ときおり触角をわずかに揺らし、周囲を監視していた。
それで十分だった。 誰も怒らず、誰も競わない。 それが当たり前であり、緒方はそこに何の違和感も持たなかった。
その夜。
緒方は浅い眠りの中で、奇妙な夢を見た。
夢の中で彼は、どこかのオフィスにいた。 喧騒。議論。怒号。
何人もの同僚と共に、緒方は上司に怒鳴りつけられていた。
「なんでこんな数字しか取れねぇんだよ!」 「責任感が足んないんじゃねぇのか!」
上司は机を叩き、さらに叫ぶ。
「こんなんだったら仕事なんか辞めてしまえ!」 「ノルマ達成するまで帰ってくんじゃねえぞ!」
緒方は立ち尽くし、心臓を鷲掴みにされたように苦しくなった。 (……怖い)
何を責められているのか分からない。ただ、誰も助けてはくれなかった。 恐怖と恥辱が胸を満たしていた。
はっと目を開けた。 背中が汗ばんでいた。
部屋は静寂だった。 壁際の蟻様の巣箱では、数匹の蟻が静かに歩いている。
緒方はゆっくりと息を吐いた。
あれは、昔、両親から聞いたことのあるような――かつての日本の光景。 夢だったと気づくと、胸の中の苦しみはすっと消えていった。
ここには怒鳴る上司も、罵り合う同僚もいない。 誰も過剰な感情を持たず、黙々と役割を果たすだけ。
緒方は薄く唇を動かした。 笑ったのかもしれない。自分でも分からなかった。
(蟻様の社会で……良かった)
もう一度目を閉じると、感情のない穏やかな闇が、再び彼を包んだ。