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第140話 蟻法廷

近年、法制度の改正によって「蟻の権利保護法」が制定された。

人間による蟻の殺傷や環境侵害は、いまや厳然たる犯罪行為として取り扱われる。


――東京都中央裁判所 第六法廷。


法廷の中央には、うなだれたスーツ姿の男が座っていた。

被告人、田所浩一たどころ・こういち38歳。

罪状は「過失殺蟻罪」。


田所は、ただ通勤途中の歩道で一歩踏み出しただけだった。

だが、その足の下に偶然通りかかった蟻を潰してしまったのだ。


それが、防犯カメラと市民通報アプリにより記録され、訴追に至った。



検察官席の男性が立ち上がる。


「この映像をご覧ください」


スクリーンに、歩道の映像が映し出される。

田所が歩を進めた瞬間、小さな黒い点――蟻があっけなく踏み潰される。


「これは紛れもなく、被告による重大な生命侵害です。

私たちの共生社会において、蟻の権利は人間と同等に守られなければなりません。

『知らなかった』では済まされない時代なのです」


検察官の横には、籠に入れられた「通訳蟻」が置かれていた。

蟻の触角に微弱な電極が取り付けられ、人間の言語に置き換えるAI装置と連動している。


だが、籠の中の蟻はただ静かに歩き回っているだけだ。



続いて弁護士が立ち上がった。


「裁判長。被告人は決して故意に蟻を殺そうとしたわけではありません。

これまでも地域清掃に参加し、蟻の生息環境に配慮して暮らしてきました。

彼は共生社会の一員として誠実に生きてきたのです」


その横でも、同じく弁護側の「通訳蟻」がただ脚を動かし、砂粒をつまみ上げている。


「そもそも、当の蟻たちがこの踏みつけをどう感じているのか……。

私たちは一方的に『痛み』や『損失』を想像し、蟻の気持ちを代弁してはいないでしょうか?」


弁護士の問いかけに、傍聴席がざわついた。


裁判長は静かに槌を打つ。


「静粛に。……確かに被告に殺意はなかった。しかし、結果として生命を奪ったのは事実です。

現在の法体系に照らせば、これは過失殺蟻罪に該当します」


「判決を言い渡します。

被告人には、一年間の蟻労働奉仕刑、ならびにニ年間の共生講習受講を命じます」



法廷を後にする田所は、がっくりと肩を落とした。


建物の外に出ると、歩道脇の土の上を無数の蟻が列を作って歩いている。

彼は立ち止まり、思わず息を呑んだ。


「……本当にお前たちは、俺を恨んでいるのか?」


蟻たちは何の関心も示さず、ただ黙々と自分たちの道を行くだけだった。


田所は苦笑した。

人間同士で蟻の痛みを論じ、蟻の正義を守るために罰し合うこの世界。

だが肝心の蟻は、それをどう思っているのか――そもそも何も思っていないのかもしれない。


それでも人間は、今日もまた「蟻のために」と声高に正義を掲げ続ける。


裁判官もまた『痛み』や『損失』を想像し、蟻の気持ちを代弁しているようだった。

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