第139話 蟻の都
人間たちは、長年にわたり蟻を研究し続けてきた。
その驚異的な集団性や秩序正しい行動は、人間社会の理想像のようにさえ見えた。
やがて国家は一大プロジェクトを発足させた。
──人間の技術で、蟻様のための都市を作るのだ。
都心の一角に大規模に地下を掘り抜き、コンクリートで緻密に組み上げた巨大な蟻用迷宮。
湿度や温度は徹底管理され、糖液や餌は自動供給システムによって不足することはない。
排泄物の処理までも完璧に計算され、いつでも清潔が保たれた。
「これで蟻様たちも、快適に暮らせるだろう」
人間たちは満足げに胸を張った。
そして、数々の蟻様のコロニーから誘導して多くの蟻様が住むようになった。
しかし都市の内部で暮らし始めた蟻たちは、やがて不可解な異常行動を示すようになる。
巣を放棄し、無意味に同じ場所をぐるぐると徘徊し続けたり、仲間を噛み殺してしまう群が現れたり。
女王蟻が卵を産まなくなるコロニーも増えた。
「どうしてだ…?栄養も十分、害虫も排除したのに」
学者やエンジニアたちは首をかしげ、さらなるデータ収集を繰り返した。
だが彼らには分からなかった。
自然が生んだ複雑な地形や土の匂い、地中のわずかな生物たちとの相互作用──
そうした微細で膨大な環境因子こそ、蟻にとっての「都市」だったことを。
人間が作り上げた理想都市は、人間にとって都合がいいだけの、息苦しい檻に過ぎなかったのだ。
それから数年。
人間たちの経済は衰退し、多くの失業者や貧困者が行き場を失った。
国家は空き地となった蟻都市の上層階を、格安の集合住宅として開放する政策を打ち出す。
「元々は蟻のために作った施設だが、人間が住んでも全く問題ない」
こうして多くの市民が、蟻の迷宮の上に寝起きするようになった。
細い通路、規則正しく並んだ小部屋、完璧な湿度管理と餌の供給システム。
最初は人間たちも快適に感じた。
やがて自分の意志で移動しているのか、それともこの迷路に誘導されているのか分からなくなっていった。
気づけば住人たちは皆、決まった時間に同じ道を通り、同じ餌を食べ、同じ場所で眠りについた。
不自然に整った行動パターン。
会話はなく、目は虚ろで、ただ決められた通路を繰り返し歩く。
上からそっと覗くと、それはまるで巨大な蟻の巣をのぞき込んでいるようだった。
しかしその構造の深奥部。
暗い迷宮の底では、無数の蟻が静かに列を成して歩いていた。
かつて人間が「住まわせてやった」はずの蟻たちが、今は逆にこの都市の深部を支配していた。
そして人間たちは自分たちがいつの間にか「住まわせられて」いることに、誰一人気づかないままだった。