第138話 蟻の献体
白い蛍光灯の下、実習室には無数の顕微鏡が並んでいる。
人間の医学生たちは皆、同じ姿勢で顕微鏡を覗き込み、小さな器具で微細な操作を繰り返していた。
今日は解剖学の必修科目――『蟻解剖実習』の日だ。
「よし、次は腹部神経叢を露出させてみなさい」
指導教授の落ち着いた声が響く。
学生たちはピンセットとメスを慎重に操り、ピクリとも動かない蟻の小さな黒い身体を切り開く。
顕微鏡越しに見るその体内は、宝石細工のように複雑だった。
透けるような筋繊維の間を神経が走り、わずかに残った体液が光を受けて青白く瞬く。
教授は顎に手を当てながら、各卓を巡回していく。
「君たちは、蟻様に命を借りて医術を学んでいるってことを決して忘れるなよ」
その言葉に、学生たちは揃って黙礼した。
教室の奥の壁には額縁が飾られている。 そこには威厳ある蟻の群像画――細密画で描かれた、女王蟻と兵隊蟻たちの凛々しい姿が鎮座していた。
この国で医師免許を取るためには、必ず一年に一度『蟻献体』の解剖実習を受けることが法律で定められている。
蟻様の身体を学ばずして、人間の健康を守る資格などないのだ。
若い学生の一人が小声で呟く。
「……こんなに小さいのに、俺たちよりずっと完璧にできてる気がするな」
隣の学生が、冷や汗を拭いながら苦笑する。
「そりゃそうだよ。俺たちは蟻様の共生体だって、小学校から習ってきただろ?」
その時、前列の学生が震える声を出した。
「せ、先生……! この蟻、まだ……少し動いてるように見えるんですが……」
教授は顕微鏡を覗き込み、穏やかに微笑んだ。
「問題ない。解剖とは本来、命あるものに刃を入れる行為だ。怖気づくな」
教室の空気が再び静まり返り、メスがカリカリと音を立てて蟻の殻を削いでいく。
その夜――。
遠く離れた、地面の下に広がる巨大な地下都市。 そこには蟻たちの医学校があった。
真紅のフェロモンランプに照らされた実習室。
蟻たちは細い前脚を器用に動かし、台の上に寝かされた白い標本の皮膚を切開していた。
彼らの複眼に映るのは、人間の少年の体だった。
薄く、柔らかく、無防備で、愛らしい。
指導役の大きな蟻が、震える触角で語りかける。
《お前たちは、この共生体の内部構造を完全に理解しなければならぬ。これこそが我々の繁栄を守る術だ。決して忘れるな》
小さな蟻医学生たちは、一斉に深々と頭を垂れた。
そしてまた、カリカリ……カリカリ……
人間の体を解剖する音が、静かな地下室に優雅に響き続けていた。
解剖台の上で裂かれる命も、その先にあるのは、種の存続という同じ祈りだった。