表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
138/279

第138話 蟻の献体

白い蛍光灯の下、実習室には無数の顕微鏡が並んでいる。

人間の医学生たちは皆、同じ姿勢で顕微鏡を覗き込み、小さな器具で微細な操作を繰り返していた。


今日は解剖学の必修科目――『蟻解剖実習』の日だ。


「よし、次は腹部神経叢を露出させてみなさい」


指導教授の落ち着いた声が響く。

学生たちはピンセットとメスを慎重に操り、ピクリとも動かない蟻の小さな黒い身体を切り開く。


顕微鏡越しに見るその体内は、宝石細工のように複雑だった。

透けるような筋繊維の間を神経が走り、わずかに残った体液が光を受けて青白く瞬く。


教授は顎に手を当てながら、各卓を巡回していく。


「君たちは、蟻様に命を借りて医術を学んでいるってことを決して忘れるなよ」


その言葉に、学生たちは揃って黙礼した。

教室の奥の壁には額縁が飾られている。 そこには威厳ある蟻の群像画――細密画で描かれた、女王蟻と兵隊蟻たちの凛々しい姿が鎮座していた。


この国で医師免許を取るためには、必ず一年に一度『蟻献体』の解剖実習を受けることが法律で定められている。

蟻様の身体を学ばずして、人間の健康を守る資格などないのだ。


若い学生の一人が小声で呟く。


「……こんなに小さいのに、俺たちよりずっと完璧にできてる気がするな」


隣の学生が、冷や汗を拭いながら苦笑する。


「そりゃそうだよ。俺たちは蟻様の共生体だって、小学校から習ってきただろ?」


その時、前列の学生が震える声を出した。


「せ、先生……! この蟻、まだ……少し動いてるように見えるんですが……」


教授は顕微鏡を覗き込み、穏やかに微笑んだ。


「問題ない。解剖とは本来、命あるものに刃を入れる行為だ。怖気づくな」


教室の空気が再び静まり返り、メスがカリカリと音を立てて蟻の殻を削いでいく。


その夜――。


遠く離れた、地面の下に広がる巨大な地下都市。 そこには蟻たちの医学校があった。


真紅のフェロモンランプに照らされた実習室。

蟻たちは細い前脚を器用に動かし、台の上に寝かされた白い標本の皮膚を切開していた。


彼らの複眼に映るのは、人間の少年の体だった。

薄く、柔らかく、無防備で、愛らしい。


指導役の大きな蟻が、震える触角で語りかける。


《お前たちは、この共生体の内部構造を完全に理解しなければならぬ。これこそが我々の繁栄を守る術だ。決して忘れるな》


小さな蟻医学生たちは、一斉に深々と頭を垂れた。


そしてまた、カリカリ……カリカリ……

人間の体を解剖する音が、静かな地下室に優雅に響き続けていた。


解剖台の上で裂かれる命も、その先にあるのは、種の存続という同じ祈りだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ