第137話 蟻宿(ありやど)
築五十年の古ぼけた木造アパート。
看板にはかすれた文字でこう書かれていた。
──《蟻宿荘》
月の家賃はわずか三千円。
ただし条件はひとつだけ。
「身体を蟻に貸し出すこと」
貧しい人々が次々とここに集まってきた。 家賃を払えない代わりに、自らの体内に蟻を住まわせる契約を結ぶのだ。
三浦祐一27歳もそのうちの1人だった。
仕事を失い、住む場所もなく、最後に辿り着いたのがこの蟻宿荘だった。
「初めは少しくすぐったいだけですよ。すぐ慣れますからね。」
管理人はにこやかに言った。
そうして最初の夜、祐一の腕に小さな切開を施され、そこから数匹の蟻が丁寧に「入居」していった。
数日後、祐一は自分の体内で確かに何かが動いている感覚を覚えた。 時々胸や腹の奥で、小さなざわめきが起きる。 寝ている間に自分の血管や脂肪の中を蟻が通り抜けているのだ。
しかしそれは、次第に当たり前のことになっていった。
「君、最近元気そうじゃないか」
管理人は満足げに祐一を眺めた。
「蟻様はね、人間の中に住むと、その人間をとても長生きさせるんですよ。君はもう、普通の人間より丈夫だ。」
祐一は黙って頷く。
確かに最近、風邪もひかないし、食欲も異様に増していたのだった。
だがある日から、妙な違和感が生まれた。
自分の意思で動いているはずの脚が、時折勝手に一歩前に出る。 指先が小刻みに動き、微かに蠢く。
(……俺が動かしてるんだよな?)
そう思い込もうとするが、胸の奥で「ぞわり」と波打つ感覚が走るたび、何かに命令されて動かされているような気がしてならなかった。
やがて、祐一は夢を見るようになった。
暗いトンネルの中を無数の蟻が列を作り、奥へ奥へと進んでいく夢。 触角同士をこつこつと触れ合わせ、静かに会話しながら。
そして気づく。
そのトンネルは、自分の体内に張り巡らされた蟻の通路からきていた。
祐一は夢の中で、自分がその列の最後尾に加わって歩いているのを見た。 もう人間ではなく、一匹の蟻として。
ある晩、ふと気づくと祐一は部屋の中を四つん這いで歩いていた。 膝と手のひらを床に押しつけ、頭を低く垂れたまま、黙々と。
脳裏に、どこからともなく命令が届く。
(……もっと、餌を……)
もう、自分の意思では止められない。 冷蔵庫を開け、生肉を取り出し、床に置いてむさぼり食う。 血の匂いが口いっぱいに広がり、その周囲では蟻たも一斉に群がり始めた。
祐一は笑った。
自分の顔なのに、自分のものではないような笑顔だった。
アパートの外観は、どこにでもある寂れた安アパートだ。
けれど部屋の中では今日もまた、人間の身体に張り巡らされた蟻の回廊を、無数の蟻が行き来していた。
廊下の奥の部屋から、肉をむさぼる音と、人の声とも蟻の擦れる音ともつかぬ奇妙な音が漏れていた。
そしてそこに住む者たちは皆、同じように静かに、嬉しそうに笑っていた。
自分が動いているのか、それとも動かされているのか。
もう誰にも分からなかった。
そう…人体アパートに成り下がったのだ…。