第136話 蟻の生活保護
「あなたはもう働かなくていいんです」
そう告げられたとき、安田はホッとした。 仕事にも、人間関係にも、もう疲れ果てていた。 どこか取り返しのつかない選択をしている気はしたが、もう構わなかった。
仕事を失ってから半年というもの。就職活動は失敗続きで、貯金はとうとう底をついた。 追い詰められた安田は、公共窓口へ相談に行ったのだった。
受付で対応してくれた相談員の女性は、淡々と申請書に記入しながら、柔らかく笑った。
「大丈夫ですよ。蟻生活保護の適用がすぐに決まりますから。 もう、後は何も心配しなくていいんですよ」
その日のうちに安田は専用の居室へ案内された。 白くて清潔な小部屋だった。 壁には生体モニターのパネルが埋め込まれ、ベッドの下には配管が伸び、床には小さな丸い穴が等間隔に並んでいた。
「ここでただ横になっていてください。食事も、健康管理もすべてこちらで行います。 点滴と糖液、それに蟻様があなたを最適な状態に保ってくださいますから」
看護師はにこやかにそう言うと、鼻の穴に細いチューブを通し、点滴の針を丁寧に刺した。 そして血圧計と心電図を取り付け、モニターに数値が映し出される。
「少し検査しますね」
医療用のスコープが腹部に差し込まれ、柔らかな光が胃壁を照らした。 安田はぼんやりと画面を見ていたが、スコープの先端から小さな黒い粒がいくつも滑り出し、体内に散っていくのが映った。
(……あれ……?)
薄い違和感が腹の奥で蠢いたが、すぐに安らかな気分に包まれた。 点滴から流れ込む甘い液体が全身をめぐり、心配事や焦りは薄紙のように剥がれ落ちていった。
どれくらい時間が経ったのか、安田には分からない。 看護師がときおり様子を見に来ては優しく頬に触れ、「とてもいい数値ですよ」と微笑む。
目を閉じると、自分の体内を小さな脚が何本も歩き回っている感覚があった。 血管を、神経を、骨の隙間を――。 くすぐったく、時折ちくりとした痛みが走る。
しかし次第に、それさえも心地よく思えてきた。
ふと薄目を開けると、点滴チューブの周りを黒い影が列を作って移動している。 鼻の管の中にも、小さな蟻が規則正しく吸い込まれていくのが見えた。
「……これでいいんだ……」
声にならない声で呟く。
もう自分は社会に迷惑をかけない。 むしろ――立派な蟻様の巣となり、また社会に「貢献」できているのだ。
最後に看護師がそっと近づき、耳元で囁いた。
「いい巣になりましたね……。これで、あなたも安心ですね」