第135話 蟻の交差点
青信号が灯り、交差点をベビーカーを押した母親がゆっくりと渡り始めた。
赤ちゃんは小さな手を握りしめ、静かに眠っている。
周囲の歩行者も次々と横断歩道に足を進める。
車のエンジンは静まり、信号の切り替わりを待つだけのはずだった。
そのとき――
母親はふと足元に視線を落とした。
(……あっ)
アスファルトの白線の上に、小さな蟻の列がきちんと並んで進んでいのに気付いた。
母親は反射的にベビーカーを引き、蟻を轢かないようにそっとかわそうとした。
しかしその瞬間、前輪が小さな段差に乗り上げて跳ね、バランスを崩す。
「――あっ!」
ベビーカーが横に傾き、母親は必死に支えながら踏みとどまった。
その間にも青信号は点滅を始めていた。
(早く、戻らないと――)
焦る心とは裏腹に足はもつれ、歩道へ引き返そうとしたその刹那。
信号が赤に変わった。
――キィーーーーーーッ!!!
横から突っ込んできた車のブレーキ音が脳を突き抜ける。
次の瞬間、車体は蟻の列を粉々に潰していた。
黒い粒が、アスファルトにぺしゃりと貼り付く。
「バカヤロー! 死にてぇのか!!」
運転手が怒鳴り、窓から血走った目を覗かせて去っていった。
母親は膝をつき、必死にベビーカーを抱きかかえて放心状態だった。
赤ん坊が腕の中で、か細い声で泣き出した。
足元には、ついさっきまで秩序正しく並んでいた蟻の隊列が、血のような黒い染みとなって転がっていた。
――親子を救ってくれたのは、人間ではなく。
ただ偶然、蟻がそこにいたからだった。
すぐに警察と共生秩序維持局が駆けつけ、道路を封鎖した。
野次馬の声がざわざわと交差する。
「……青信号だったのに、なんで止まったんだ?」
「蟻様を避けようとしたらしい……」
「いやでも……あの母親は命より蟻様を選んだんだよな。立派だよ……」
ニュースではこの出来事を大きく取り上げ、
「尊い選択」「人間より先に蟻様の命を考えた模範的行動」だと持ち上げた。
事故を起こした運転手は、蟻様を数匹轢き殺した罪で逮捕され、
人身事故以上に重い刑が科される見込みだと報じられていた。
数週間後
事故現場の交差点には、蟻様を悼む石碑が建てられていた。
「蟻様の御霊と、尊き行いを為したS-70コロニー群一連隊様に永遠の冥福を」と刻まれていて、亡くなった蟻様の番号名がそれぞれ順番に刻んである。
S-70-00321
S-70-00322
S-70-00323
・・・
S-70-00357
そして、その石碑の前で、母親の夫と思しき男が、そっと頭を下げていた。
喉が詰まり、うまく呼吸ができない。
息を吐くたびに、指先がわずかに震えていた。
(……本当に、ありがとう。あの時、妻と子供を助けてくれて……)
胸の奥に込み上げるものを必死に押さえ込み、またそっと頭を垂れた。
ふと顔を上げると、石碑の脇を別の蟻の行列が通り過ぎていくところだった。
男は思わず、小さく声をかけた。
「……あの……その節は、本当に……ありがとうございました……。」
だが蟻たちは規則正しく列を保ったまま、何の興味も示さずに去っていく。
よく見ると、その蟻たちは体の模様が違っていた。
別のコロニー――事故のときに母子を救った蟻とは、まったく関係のない一群だった。
(ま……そう、だよな)
男は気恥ずかしそうに目を伏せ、静かに頭をもう一度下げた。
風が冷たく吹き抜け、石碑の供え花がカラカラと音を立てて揺れた。
交差点の向こうでは、また別の蟻の列が、誰にも邪魔されずにゆっくりと進んでいった。
そして…男はそこまで、かけ寄って行き、
「……あの……その節は、本当に……ありがとうございました……。」
深々と頭を下げた。
(まっ、違うよな…)
そして、顔を上げるとまた、数十メートル先のポストに蟻の隊列が…