第133話 A世代
「ねぇ…お父さん……大きな声じゃ言えないんだけどさ……」
夕食後の廊下で、息子の亮――中学二年生になる息子が、不安そうに俺を呼び止めた。 廊下にはいつものように蟻様用の小道が走り、小さなフェロモンランプがほのかに光っている。
俺は反射的に、声を落として答えた。 「どうした、亮」
亮は周囲を見渡してから、さらに顔を近づけ、小声でささやく。
「学校の授業でさ……先生が『僕たちはA世代なんですよ』って言ったんだ」
A世代。 蟻様との共生体制が完全に確立されてから初めて生まれた世代―― 蟻様と共に暮らすことを当然のように受け入れて育った、初めての子どもたちだ。 人間が“自分たちだけで決める時代”を知らずに大きくなった世代。
亮は続ける。
「それでね……クラスで、『お父さんやお母さんが中学生だった頃は、人間だけで全部決めてたんだよ』って言ったやつがいてさ。先生は笑ってたけど……なんか、変な空気になって……」
「……そうか」
俺は息を詰めた。 壁のフェロモンランプが、ちろちろと点滅しているのがやけに目についた。
亮はさらに小さな声で言った。
「お父さん、本当なの? 人間だけで選挙とか、決め事とか…そんな時代あったの?…何でも?」
「……ああ、本当だよ」 俺も囁くように答えた。 「昔は、全部人間で決めてた。店を出すのも、結婚するのも、進学も就職も、誰に許可をもらうわけでもなかった」
亮は目を丸くし、だけどすぐに心配そうに周囲を見た。
「それってさ……今、誰に聞かれてるかわからないからだよね?」
その瞬間、俺の背筋が薄ら寒くなった。 「……ああ。わからない。だから……あんまり人に話すなよ。いいな?」
亮はコクンと頷き、少しホッとした顔で自室へ戻っていった。
俺は暗い廊下に一人立ち、胸を撫で下ろす。 こんな当たり前の昔話でさえ、慎重にならなければいけない。 A世代には、到底理解できないことなのかもしれない。
――チカ、チカ。
廊下のランプが、少し強めに点滅したような気がした。 嫌な汗がにじむ。
そして…一匹の蟻が歩いていく…。
次の朝。
「ピンポーン」
玄関のチャイムがやけに低く響いた。
インターホンのモニターには、黒い制服の男たちが立っていた。 胸には白い蟻の紋章。 見慣れた“共生秩序維持局”のエンブレムだった。
「……お父さん……」
亮が心細そうに袖を握る。 俺は何も言わずにその手を軽く握り返し、モニター越しに息をのんだ。
「警察ですが。昨日深夜通報がありまして、少々お話を伺いたいことがありまして――」
その奥で、小さな蟻がモゾモゾと制服の肩を歩いていた。
そして、同時刻…先生のもとにも共生秩序維持局の人が来たようだ。