第126話 蟻を出す少年
中学二年の藤井隆志は、クラスで目立たない存在だった。 小柄でおとなしく、よく目を伏せて歩く。
その態度が気に入らないのか、クラスのリーダー格の小山やその取り巻きたちは、日常的に彼をからかい、時に机を蹴り、時に藤井の私物を隠した。
ある放課後。 体育館裏に呼び出された隆志は、壁際に追い詰められていた。
「おい藤井、お前の顔むかつくんだよな。ちょっと殴らせろよ。」
小山が笑いながら拳を握る。 取り巻きもゲラゲラと笑い、携帯で動画を撮ろうとしていた。
隆志は黙ってポケットに手を入れた。 その手の中に、小さな透明ケースがあった。 そっと蓋を開ける。
途端に―― 彼の制服の襟元から、小さな黒い蟻が一匹、二匹と這い出てきた。
「……ん?なんだそれ」
小山が眉をひそめる。 蟻は隆志の首筋から顔を這い、前髪を登っていく。
「やめろ、藤井!蟻様使うなんて卑怯だぞ……」
しかしその瞬間、小山の顔が真っ青になった。 取り巻きも、携帯を構えたまま青ざめて硬直している。
「……す、すいません!ごめんなさい!マジですんませんでした!!」
小山は顔色を失って土下座した。 取り巻きたちも慌てて頭を下げる。
隆志はポカンとした。 ただ黙って、頭の上を這い回る蟻にそっと指を添える。 それを見た彼らは、恐怖に震えた目をしながら、何度も地面に額を擦りつけた。
翌日から、隆志を取り巻く空気は一変した。 小山は朝から「おはよう!」と愛想笑いを浮かべ、取り巻きたちは「カバン持ちますよ!」と気を遣った。 授業中に消しゴムを落とすと、誰よりも早く拾って机に置いてくれる。
昼休み、隆志がそっと机の上にケースを置くと、それだけでクラス中が水を打ったように静まり返った。 皆、視線を合わせないようにし、息を詰める。
(……別に、脅したつもりなんてなかったのに)
隆志は、ケースの中で規則正しく列を作っている蟻を見つめた。 蟻はただ黙々と歩くだけ。 それなのに―― 人間たちは、こんなにも怯える。
隆志はそっと笑った。 そして、小さな声で蟻に囁く。
「ねぇ……俺、これから、もう殴られないよね?」
蟻は何も答えなかった。 ただ列を崩さず、静かに円を描き続けていた。
数ヶ月後…
「おいっ、小山!誰に向かって口きいてんだ!」
藤井の怒声が教室中に響いた…