第125話 蟻の研究禁止法
この国では、ある時から蟻の研究をすることは固く禁じられていた。
「蟻様に敬意を欠く行為」「人間の分を弁えぬ傲慢」とされ、法律で厳しく罰せられるのだ。
昔は昆虫学者や行動生態学者がたくさんいた。
熱心に蟻の行動を記録し、遺伝子を解析し、巣の構造を模型にした。
だが、それはある時を境に一変した。
――「蟻様を人間ごときが測ろうなど、あまりにも不遜」
そう決議されてからは、全国の大学や研究所から蟻関連の研究室は消え、資料も破棄され、教授や学徒は次々に逮捕された。
「蟻冒涜罪」という名目だった。
以来、蟻はただ尊崇の対象となった。
歩く道を人は避け、食卓では席を設け、ビルの設計は蟻の通行が最優先。
だが、なぜ蟻が人間の上にあるのか――その理由を知る者は、もう誰もいなかった。
そんな中、一人の若い生物学者・高村洸はひそかに蟻を観察していた。
夜、人気のない研究室の片隅。
防音カーテンを引き、細いスタンドライトだけを灯す。
机には顕微鏡、その下のスライドガラスに小さな黒い蟻が一匹。
高村は息を潜め、レンズを覗き込む。
「……なんてことはない、ただのクロオオアリじゃないか」
焦点を微調整すると、節だらけの足や、複眼の光沢がくっきり映る。
遺伝的に特殊な形質も、目立った寄生虫も見当たらない。
だが――
それだけだった。
「こんな、普通の……」
高村は安堵よりも不気味さを覚えた。
あれほどまでに神格化され、国中の秩序の中心となっているものが、何の変哲もない蟻。
その事実が、かえって恐ろしく思えた。
(記録を残そう。誰かがいつか、この馬鹿げた構造に疑問を持つ時のために)
そう思い、手元のノートPCに結果を打ち込み始めたその瞬間――
背後で、カサ……と、紙を擦るような微かな音がした。
振り返った室内には誰もいない。
けれど、床に点々と黒い列が続いていた。
(……蟻?)
高村は急いでコンセントを引き抜こうとした。
が、その指先を小さな何かが這い上がる。
見下ろすと、腕には無数の蟻が群がり、あっという間に肩まで這い上ってきていた。
喉がひゅっと狭まる。
声が出ない。
足がもつれて、その場に倒れた。
最後に視界がぼやける中で、高村は薄暗い天井を見つめた。
そこにも、蟻が規則正しく列を作っていた。
翌日、研究室から高村の姿は消えた。
机の上には破られたノートと、顕微鏡だけが残っていた。
「蟻様を研究しようなどとした報いだろう」
近所の人々はひそひそと話すだけで、誰も真相を探ろうとしなかった。
それが、この社会の常識だった。
だから今日も、街は何事もなかったかのように動いている。
蟻が歩くのを、ただ敬虔な面持ちで見守りながら――。
そして、人間がなぜ、蟻の上にいたのかさえも、また誰も知る者はいなかった。
ただ地上にいるというだけで…