第121話 蟻のカツラ
都心の通勤ラッシュ。
駅のホームを埋める人々の頭は、どこも黒々と豊かな髪で溢れていた。――いや、それは髪ではなかった。
以前薄かったはずの人も、いつのまにか艶やかに黒黒としているようになっていた。
ざわざわ……ざわざわ……
頭皮の上で絶えず小さく蠢く無数の蟻たち。
彼らは列を組んで歩き、折り重なるようにして美しい黒の流れを頭の上で作っていた。
スーツ姿の営業マン・石橋(42)もその一人だ。
今日も出勤前に鏡の前で、専用の透明ケースをセットし、頭の上の蟻様をきちんと固定した。
「よし……まだしっかり覆ってくれてるな……」
蟻は、このケースがないと散らばっていってしまう。
だから外出時には必ず必要だ――それが、この国の常識。
職場に着くと、頭の薄い同僚や上司も当然のように頭の蟻に視線をやり、羨ましそうにしたり、「今日は特に整ってるね」と軽口を叩いたりした。
今では誰もそれをおかしいとは思わない。
髪の代わりに蟻が頭皮を覆うこと――それは社会での身だしなみであり、最低限のマナーだった。
昼休み、石橋は屋上で一人サンドイッチを食べていた。
蟻たちが耳の横まで列を組んで移動してくる。
(おいおい……ケースの中でおとなしくしてろよ……)
小さな足が首筋に触れ、くすぐったくて思わず肩を竦める。
それでも、周囲の誰も不審がることはなかった。
むしろ、それが「ちゃんと蟻が活動している証拠」だと、皆どこか安心して見ていた。
夕方。仕事を終え、石橋は電車に揺られながらふと気づいた。
(……あれ?)
頭の上が妙に軽い。
慌てて窓ガラスに映る自分を見た。
そこには――
蟻のいない、むき出しの地肌。
ケースを会社に置き忘れてしまい、蟻たちはいつのまにか石橋の頭から散らばってしまった。
「……嘘だろ……」
石橋は冷や汗を浮かべ、周囲を見渡した。
隣の席の女性も、向かいのビジネスマンも、皆頭上を蟻で黒く波立たせている。
自分だけが異様に裸の頭。
思わず頭を抱え込む。
(どうしよう……恥ずかしい……こんなの……みっともない……)
しかし、誰もが石橋の頭をみているような感じがした。
だが、話しかけてくる人も、咎めるような視線もなかった。
それどころか、皆ただスマホをいじり、広告を見つめ、静かに揺られているだけだった。
駅に着き、石橋は恥ずかしそうに項垂れながらホームを歩く。
頭に蟻がいようと、いまいと。
誰にとっても、それは大した問題ではないのかもしれない。
電光掲示板に「明日も快適な蟻ライフを」と広告が流れる。
その下で、石橋はひとり頭を押さえながら、足早に人混みに紛れていった。
そして誰一人として、石橋を見ている者はなかった…。