第115話 蟻育成アプリ《ありもっち》
最初は、ただの癒しのつもりだった。
仕事がうまくいかなくて、家に帰ってもスマホばかり眺めていた頃。
SNSで「最近ハマってる」と流れてきた、《ありもっち》。
画面の中で、小さな蟻がせっせとエサを運び、巣を広げていくスマホゲーム。
それだけなのに、なぜかとても愛おしかった。
「可愛いな」「健気だな」
夜中にぼんやり眺めているだけで、胸の奥が少し軽くなった気がした。
試しにアプリを取り入れてみた。
コロニーが育つほど、私はどんどん楽しくなり、《ありもっち》に夢中になった。
「もっと巣を拡張しよう」「もっと女王を守ろう」 アプリが繰り出す小さな指示に従っていると、何も考えなくて済んだ。
会社で上司に叱られた日も、同僚に陰口を言われた日も、 スマホを開けば、私にはスマホ開けば蟻たちがいると思うことで安心した。
蟻たちはアプリ内で黙々と育っていった。 誰も文句なんか言わない。ただ仲間のために尽くしていた。
――そうか。
私も蟻みたいに、歯車でいいんだ。
誰かのために動くのって、きっと素晴らしいことなんだ。ふと思った…。
そう思ったら、少し胸が楽になった。
その日から、アプリに従うようになっていった。
いつからだろう。
自分で決めることが減ったのは。
昼休み、同期にランチを誘われても 「今日はいいや」と断った。
理由はない。ただ、蟻たちが気になったから。
夜は部屋の電気を暗くして、スマホの蟻を見つめる。
「ベッドの下に穴を開けろ!」
画面からの小さな文字で指示がくる。
ある日、通知が来た。
「もっと巣を広げましょう。」
私は少しも迷わなかった。
自室のカーペットを剥がし、床に砂を撒いていた。
手を真っ黒にしながら、平らにならしていく。
スマホの画面には、私が撒いた砂にそっくりの色の巣が広がっていく。
いつの間にか、友人からの連絡にも疎遠になっていった。
仕事も最低限業務をこなすだけ。
頭の中はずっと「コロニーを整える」「仲間のために働く」の《ありもっち》のことでいっぱいだった。
ある日、ふと鏡を見た。
そこには、どこか虚ろな目をした自分がいた。
でも、口元はうっすら笑っていた。
スマホを見ると、そこには新しいメッセージ。
「あなたは理想的な働き蟻です。」
その瞬間、嬉しくて胸がいっぱいになった。
喜びとも、安堵ともつかない感情で。
――わたし…認められたんだ。
仲間のために生きるって、こんなに幸せなんだ。
私はそっと目を閉じた。
画面の蟻たちが静かに行列を作るのを見ながら、自分の心が完全に溶け込んでいくのを感じていた。