第11話 開封 —そして、君の中に
記録コード:Z-19-OPEN
状態:開封許可・段階III
対象:物件No.472 / 鑑定官指定個体
対人暴露リスク:管理下にあり
閲覧レベル:制限解除
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都内・西麻布。
薄雲に月が滲む深夜二時、高級分譲マンションの一室には、不釣り合いなほどの静寂があった。警視庁・鑑識課の白木 輝也は、長机の前に立ち尽くしていた。
本来ならこの時間、彼は自宅で缶ビール片手に報告書の進捗に愚痴をこぼしているはずだった。だが今、彼の眼前にはひとつの密閉コンテナがある。
鑑識課に届いた異例の依頼──それが全ての始まりだった。
「この中身を見てほしいんだ。だが、詳細には触れずに報告書を仕上げてくれ」
依頼主は本庁上層部。直接命じてきた係官は、明らかに刑事でも鑑識でもない人物だった。背広のボタンすら閉じられないほど不慣れな身なりで、終始無表情。
「対象は……有原ミナ。二十歳。都内の女子大学生です」
白木の手元に置かれた書類には、彼女の死亡証明書と、火葬済を示す行政処理文書のコピーが綴じられていた。だが、机上の金属コンテナに記された識別番号は、有原ミナ本人のDNAと一致。
「解剖されるべきではなかった遺体が、なぜここにある…?」
白木は軽くため息をつくと、コンテナの外装をチェックし、慎重に封を解いていく。金属の蓋を外した瞬間、軽く冷気が漏れ出した。
「……異常に保存状態がいいな」
腐敗臭もほとんどない。皮膚はまだ生前の張りを保っており、手足にも硬直の痕跡が残る。あまりに不自然な“生々しさ”に、白木は小さく首を振った。
目視観察を終え、白木は手袋を締め直す。
メスを取り、胸部からの切開に入ろうとしたその時だった。
──サワサワサワ……。
「……?」
聞き慣れない、異音。
皮膚を切る瞬間に、“開封音”など聞いたことがない。
まるで、密閉された真空パックを破るような音。
切開のラインをゆっくりと伸ばす。
次の瞬間、筋肉の隙間から、黒い影がどっとあふれ出した。
蟻。蟻。蟻。
数百、いや数千単位で。 傷口から這い出し、床面を覆い、手術台の縁を伝って空間を満たしていく。
「なっ、……なんだこれは……っ!」
白木は思わず椅子を蹴り倒し、距離を取った。
医療灯の光が、次々と露わになる“異形”を照らす。
筋肉の内部に埋め込まれた「蟻道」。 神経を縫うように設けられた、規則的な通路。 血管の代わりに、透明な導管がフェロモンを微細に運ぶ。
「こんな……構造、見たことない……!」
肝臓と思われた器官は、完全に異質な卵室に置換されていた。内部には、光を感知した瞬間に動き出す女王個体の卵──
《No.472開封:フェーズ完了》
《人間が“気づく”可能性、計算範囲内》
《この報告者は後処理に回す。問題なし》
頭上のスピーカーから、電子的な“報告”が流れ出す。
白木が息を呑んだ瞬間、小さな蟻の一匹が空を舞い、彼の耳元に近づいた。
反射的に手を伸ばすも遅かった。
蟻はそのまま、白木の外耳孔から滑り込んだ。
「ぐあっ、あ……あああっ……!」
突如、内側から視界が歪む。
回転する。捻じれる。焼けるような感覚が脳の奥を駆け巡る。
白木は膝をつき、手術台にしがみつく。
「……俺たちは……もう、とっくに……乗っ取られて……」
言葉を吐き出した瞬間、白木の視界が“裏返る”。
脳の奥、どこか別の場所から、“音”が響いた。
それは言葉ではない。
意味でも感情でもない。
ただ──命令だった。
『恐れるな。思考は最適化される。あなたもまた、“棲む場所”となれる』
そして、沈黙。
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Z-19中央指令・全体報告抜粋:
✅ 物件No.472:開封完了
✅ 第一次人体内部コロニー:完全機能中
✅ 第II世代フェロモン・音声融合拡散型:展開許可済
✅ 全体計画:“知覚外侵略”段階 完了
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数日後。
鑑識課の朝礼に、白木は何事もなかったかのように姿を見せた。
髪型も声も同じ。
だが、同僚たちは一様に言った。
「あいつ……なんか変わったよな」
「前よりよく笑うけど……笑い方が、変だろ」
「話してても、妙に、こっちの話に合わせてくるというか……」
上司が軽く声をかける。
「そういえば白木、あの解剖の件、報告書は?」
白木は微笑んだ。
完璧な角度で、表情筋を動かしながら。
「開封報告書?あ〜、あれ……特に異常はありませんでしたよ」