第109話 蟻への贖罪の日
毎年六月、街には黒と赤の旗が揺れた。
「贖罪祭」の季節だ。
かつて、人間は数えきれぬほどの蟻を無自覚に踏み殺してきた罪を、国家として謝罪し続けるための行事。
街の中央競技場には朝から多くの市民が集まり、選ばれし数百名の贖罪者たちが白装束で並んでいた。
川村壮介、35歳。
妻と娘をスタンドに残し、ゆっくりと広場の中央へ歩を進めた。
家計を助けるために、自ら志願したのだ。贖罪者は税金が一年間免除される。
「大丈夫……死ぬわけじゃない。ただ、踏まれるだけだ」
自分にそう言い聞かせ、息を整える。
周囲からは歌のような祈りが聞こえる。
「贖罪を……我らに、蟻様に……」
やがて会場が静まり返った。
地響きが近づく。
巨大な鉄蟻が、黒光りする顎をゆっくりと動かしながら入場してきた。
その足は、鉄柱のように太い。
群衆からは、歓声が上がる。
(くる……!)
壮介の列の前で蟻は一度立ち止まった。
そして、その脚が――ゆっくりと降りてくる。
ぐにゃり、と身体が押しつぶされる。ひんやり冷たさを感じる…。
肺から空気が無理やり搾り出され、目の前が白く染まる。
全身の骨が軋み、内臓が潰れそうになる。
それでも決して死なないように、踏む力は計算され尽くしているようだ。
苦痛の奥で、妙な恍惚が頭を満たした。
(ああ……これが、贖罪か……)
周りから、人々のすすり泣く声や、歓喜の声が混じっていた。
圧迫の中で壮介は知らずに、笑みを浮かべていた。
蟻の足が離れ、血の巡りが戻っていく。
ぼたぼたと冷たい汗が地面に落ちる。
骨は無事だったが、全身は恐ろしく痺れていた。
歓声が一層大きくなる。
周囲を見渡すと、他の贖罪者たちも口々に感謝の言葉を洩らしていた。
「ありがとう蟻様……」 「これで我々は……また生かされる……」
…そう、赦された気がした…。
スタンドでは妻が泣いている。
だが壮介は、ぐらつく脚で立ち上がると、妻に向けて、大きく手を振って見せた。
(見ていてくれ……俺はちゃんと償った。俺はちゃんと、家族を守れる)
巨大蟻は再びゆっくりと歩き出す。
次の列へ進むその足元に、人々は次々と身を横たえていった。
競技場は贖罪の声で満たされ、興奮した観客が叫び、泣き、微笑んでいた。
そして、SNSではコメントが殺到していた。
「神聖な贖罪の儀で手を振るとかマジありえない…w #黙って踏まれろ」
「笑ってるとか頭おかしくね?蟻様は遊びじゃねーんだわw」
「家族に手振るとかマジ草。 #贖罪マナー」
祭典の帰り、壮介は気づいてしまった。
あの圧迫は、あの蟻の重みは――
(もっと、踏まれたい……)
心の底から湧き上がる感情、奇妙な興奮、そしてまた踏まれたい欲望を、誰にも止められなかった。
こうしてまた一年、人間は蟻に頭を垂れ、圧し潰されながら生きていく。満更でもなく。
そう…壮介だけでなかった…。
もう、罪の意識なんてなかった…。
お金のため、自分の欲望のため、蟻への贖罪はいつのまにか、どこかに消えていった…。
贖罪の名のもとに、人は無意識に、進んで蟻に支配されていった。
それはもう、罪の償いではなく、甘い服従の喜びだった──。