第105話 正常と異常のあいだで
「お母さん! 今日、友だち連れてきていい?」
そう言って、誠は学校から駆け帰ってきた。 小学三年生。これまで人見知りで友だちを家に呼んだことなどなかった息子が、 はじめて「友だちを連れてくる」と言ってくれた。
母親の志保は嬉しくてたまらなかった。 仕事帰りにケーキ屋に寄って、少し奮発して苺のタルトを買う。
「どんな子たちなんだろう……」
食卓のクロスを新しく敷き直し、誠の好きなハンバーグを仕込みながら、 時計を何度も見る。
──そして、玄関のチャイムが鳴いた。
「ただいまー! 母さん、友だちもいるよ!」
志保は笑顔で玄関に立った。
(さあ、ご挨拶を──)
そう思って顔を上げる。
いない…
志保は辺りを見回す。
……だが、そこには人間の子どもはいなかった。
小さなランドセルを背負った誠の肩や頭、足元をチョロチョロと這い回るのは、 五匹の黒い蟻。
蟻たちは規則正しく並び、触角をふるわせる。 誠はそれを見てニコニコしている。
「母さん、紹介するね! こっちがコロ、これがミル、あとノコとピイとタル! すごくいいやつらなんだ!」
志保は言葉を失った。 頭が真っ白になる。 声が出せない。
志保は必死に言葉を絞り出し、
「こ…こんにちは…」
「ねぇ母さん、ケーキ一緒に食べていい? ミルね、苺が初めてなんだって!」
「そうね…」
志保は苦笑いする。
誠は屈託なく笑う。 蟻たちは小さく足踏みのような動きをしていた。 ……それが、笑っているようにさえ見えた。
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そして、後日。
志保は誠を小児精神科に連れて行った。
「最近この子……人間のお友だちが出来なくて、いつも蟻と遊んでるんです……」
医師はカルテを眺めると、志保に向き直って優しく言った。
「そうですか……お母さま、それはお辛いですね。でも、誠くんはとても元気で正常で問題ないですよ。
むしろ今まで“人間依存”の傾向が強かったので、安心しました」
「え……?」
「社会適応検査の結果、誠くんはフェロモン感応性が高く、将来どの群れにもスムーズに組み込めるでしょう。
お母さまの方が、少し過剰反応が出ておられるようですね。最近では、親御さんの方がついていけないケースが増えてましてね。まぁ時代の移り変わりでしょう。」
次の瞬間、志保の視界がぐらりと傾いた。
気づくと、病室の白い天井が見えた。 横で医師が誰かに話している。
「急性の社会変革による群れの不適応症状ですね。環境刺激を遮断するため、即日入院で処置します」
(え、……私が?)
志保は薄れゆく意識の中で思った。 どうして私が?
……ふと、病室のカーテンの隙間から覗く影があった。
小さな蟻たちが、並んで触角を揺らしている。 それが「お大事に」とでも言っているように見えていた。
おかしいのは、自分なのかもしれない…。