第103話 アリ芸人(ぎいにん)
「……はい、じゃあ次の出演者の方、スタンバイお願いします」
舞台袖で呼ばれた男、杉山尚人は、深く息を吐いた。
──今日は、ウケるかな…。
彼は、芸歴12年のピン芸人。
ネタは言葉と間で見せる「しゃべくり漫談」。
だが、客は笑わない。誰も…。
照明が当たる。客席が見える。
……今日も、満員だった。
だがその視線は彼を向いていない。
舞台上、透明ケースの中を動く“蟻”たちに注がれているのだ。
さあ、蟻コンビの"ありちゃんず"です。
さぁ、どうぞ。司会者は告げる。
そしてありちゃんずは、透明ケースの中で動きだす。
「っははっ、今の動き見た!? 回ったよ!?」 「すげー、後ろに下がった! あれ“間”じゃない!?」 「うわ、いま転んだぁ~ッ!」
──何もしていない。
蟻はただ、歩いているだけだ。時々止まり、ぶつかる。
それだけで、客席からは笑いが止まらない。
そして、次は杉山の番が来た。
登場して杉山はマイクを握った。
「どもー! 杉山でーす! 今日も寒いですねー!」
……シンとした空気。
笑いどころか、咳払いすら起きない。あくびまでされる始末…。
スタッフが、そのまま"ありちゃんず"を退場させるのを忘れて、そのまま置かれていた、ケースの中で一匹の蟻が、なぜか“クルッ”と回った。
ドッ!!
「アハハハ! いまの何!?」 「たぶんツッコミだよ、あれ! 本能的なツッコミ!!」
──横で杉山はネタを続けるが、どれだけタイミングを合わせても、言葉を重ねても、誰も見ていない。
唯一の“観客”は、蟻の動きに笑っている客たちだった。
そう杉山に誰も笑っていないのだ…。
(……もう、無理かもな)
ステージを終え、舞台袖で杉山はマネージャーに言われた。
「ごめん、次の仕事、“蟻の前説”頼まれてて」
「……俺が、蟻の前座?」
「うん。安心して。君が出てる間、みんなスマホいじってるから恥ずかしくないよ」
──その夜、帰宅した尚人は、ネタ帳を開いた。
笑いとは何なのか。芸とは何なのか。
もう、答えは分からない。
ふと、テレビをつけると特集番組が流れていた。
《人間より面白い! 話題のアリ芸人・“蟻笑団”ドキュメンタリー》
解説者が言う。
「彼らの“歩き”にはね、思想があるんですよ。沈黙のリズム、これはもう“間”の極致ですよ」
尚人は、そっとテレビを消した。
……目を閉じると、客席の笑い声が聞こえる。
あの爆笑は、いったい何に向けられていたのか。
「本当に滑稽なのは、俺たち人間の方かもしれないな」