第10話 棲む者たち、侵す者たち
状態:進行中
フェロモン共有:完全
隠蔽レベル:社会内・無認知
殲滅対象:一部“感化不能個体”
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東京都心・公共住宅第13団地。
深夜2時。妙な違和感に目が覚めたのは、公務員の大隅 陽子だった。
40代、独身。地味な暮らし。だが彼女は、“正常性”に異常なまでに敏感な人間だった。
彼女は子どもの頃から、“ズレ”に過敏だった。
教室で皆が同時に笑うタイミングがずれると、それだけで動悸がした。
お祭りの音楽がほんのわずかテンポを外すだけで、気分が悪くなった。
そんな“微細な狂い”に反応する自分を、彼女は長く「神経質」と思っていた。
だが、大人になるにつれ、陽子はこう考えるようになった――
「この“違和感”こそが、何よりも大切な感覚ではないか」と。
寝室の天井を見上げながら、何かが“狂っている”と、皮膚感覚で察知する。
テレビの音がやけに無機質だ。
朝のニュース番組では、キャスターが「すべてが順調です」とだけ言い、映像が10分近く静止していた。
通勤中のビルのガラスに映る人々は、みな同じテンポで歩き、無表情のまま肩を振っていた。
コンビニに入っても、「ありがとうございました」の声が再生音のように同じだった。
買った商品に貼られたバーコードから、一瞬「ブィィィィ」という高周波が聞こえた気がして、陽子は思わず耳をふさいだ。
通勤電車の乗客は皆、完璧すぎる姿勢でスマホを持っている。
職場の上司は、妙に理屈が通っている発言しかしない。
「……人間が、均質になりすぎてる」
陽子はそう呟いて、押し入れから古いICレコーダーを取り出した。
彼女の父が“声の観察”を趣味にしていた遺物だ。
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翌朝、出勤中の電車内。
彼女はこっそり録音を開始し、乗客たちの会話や咳払い、つぶやきを記録する。
だが――
ヘッドホンで聞き直すと、その音は“生”の感情を感じさせなかった。
「ありがとう」「お疲れ様です」といった挨拶も、波形が妙に整っていた。
声の高さやスピード、言い回しに揺らぎがない。むしろ、全員が同じ“合成声”を使って喋っているようにすら思えた。
彼女はある朝、再生速度を10%遅くしてみた。
するとそこには、人間の声の背後に――機械的な「律動音」が隠されていた。
タタン、タタン、という規則的なクリック音。
その音は、テレビにも、駅のアナウンスにも、近所の子どもの笑い声にも混じっていた。
どの声にも、「抑揚」がない。
どの笑いにも、「起伏」がない。
すべてが、妙に一定の周波数に近い。
彼女は愕然とする。これは「個人の声」ではない。
まるで、同じスピーカーから発された「合成音」のようだった。
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陽子の録音調査は続いた。
家族の声、ニュースの声、ラジオのパーソナリティ。
だが、どれも似てくる。いや――“同じ”になっていく。
陽子は気づいた。
すべての音声に、微細な高周波パターンが混じっている。
聴覚では識別できないが、耳道から侵入しやすい波形だ。
「……これ、何か違う! どんどんこの世がおかしくなりつつあるわ!」
彼女は怯えながら、もしもの時のために最後の音声を録音し始める。
震える手でマイクに向かって話す。
「これは……侵略です。
何者かが私たちの生活に、無意識に入りこんできているような気がします。
私が今録音しているこの声すら、もしかしたら既に――」
そのとき、PCの画面が一瞬揺れた。
ウィンドウが勝手に閉じ、警告音が鳴る。
「Z-19プロトコル:接続中」
陽子は即座に電源を引き抜いた。
だが、冷蔵庫のモーターが奇妙な音を立てて回転を始めた。
彼女は立ち上がり、殺虫剤を握りしめる。
だが、テレビのスピーカーから流れる声が囁いた。
「あなたの努力は、確認されています。無駄な抵抗は不要です」
その瞬間、彼女の膝がガクンと抜けた。
耳の奥が焼けるように痛み、視界が反転する。
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翌朝、陽子の部屋は無人だった。
彼女の瞳はすでに焦点を結んでいなかった。
だが意識の奥底では、まだ抗っていた。
「私は、私でいたい……この声も、思考も……誰にも渡したくない……」
脳内に無数の声が渦巻いていた。
Z19:順化命令フェーズ継続中
Z19:中枢フェロモン同期確認
Z19:個体識別消去準備――完了
しかし、陽子は奇跡的に、最後の一瞬、自らの手でPCの録音ファイルを暗号化していた。
そのフォルダには、彼女の手書きのメモが添えられていた。
「この声が、まだ誰かの耳に届くなら……私は、ここにいたという証明になる」
PCの内部には、アクセス不能のデータ群が残されていた。
そして、机の下には陽子が抵抗しようと使った殺虫剤が転がっていた。
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Z-19構造報告書
✅ 新規感化不能個体:処理完了
✅ 聴覚命令ルート:全国エリアに拡張済
✅ 音声による社会浸透フェーズ:最終段階へ移行
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陽子は、抵抗むなしく順化した。
だが、わずかな痕跡が――“声”という形で、この世界に残された。