第1話 蟻は、見ていた
20XX年…夏の午後。外の気温は32度ある。
地面に近い場所は、体感でそれより5度は高い。
膝をつけば、空気が肌にまとわりつくのがわかる。
老人は庭先にしゃがみ込むと、麦わら帽子のつばを親指で押さえた。
煉瓦の隙間から、小さな黒い列が蠢いていた。蟻だ。数十匹、いや数百匹はいる。
何かを運んでは、何かを返して、無言でせわしなく出入りを繰り返していた。
「……くそ、また湧いてやがる」
ぼそりとつぶやくと、老人は物置から白いケースを取り出した。
『蟻の巣ポロリ』だ…。毒餌式。昔からある定番商品だ。
誘引性の餌を巣へと運ばせ、中から全滅させる。簡単で最も効果が高い。
老人はそれを躊躇なく使い、巣の近くに空になったケースを置いた。
そして静かに見下ろしながら、じっくり待った。
隣で遊んでいた小さな孫が、興味を持って近づいてきた。
「おじいちゃん、それって、蟻さんを殺すやつでしょ?」
「ああ、噛まれたら厄介だからな。全部やっとかないと、また増えちゃうからな」
少年は面白がるように笑い、指で列から外れた蟻を次々に潰し始めた。
ぷち、ぷち、と軽い音が地面に吸い込まれていく。黒い染みが残った。
「一匹だけじゃ、だめだよね。みんなやらないと」
「そうだな」
老人も笑った。そこには罪悪感というものはなかった。
彼らにとって、蟻というものは“そういうもの”だったのだ。
そう…その日までは。
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Z19コロニー内では、すべてが平常だった。
気温、湿度、巣の空気循環、食料流通、外敵センサーの信号――
全てが規定値を保ち、警戒レベルは「白」。
巣の中心では、女王蟻がフェロモンによる「微細な命令」を行き交わせ、
数千体の作業蟻と兵蟻が寸分の狂いもなく稼働していた。
だが、その日午後14時23分。
作業帯第四層で異変が発生した。
【コードY-5】不審物の検出――未知の糖分と油脂、揮発性化合物を含む。
第3小隊の兵蟻が現場に急行した。だが戻ることはなかった。
彼らの口器には甘い餌が付着していた。
「新種の供物か?」「有毒性は未確認。摂取後、症状観察を行う」
過去に人間から得た餌は、記録上は安全だった。
だが今回は違った。
摂取からおよそ10分後。最初の死者が出た。
起動停止、神経震盪、外皮硬化、内臓崩壊。
そして──信号暴走。
死に際、兵蟻たちは「異常事態」として最後の情報を周囲に拡散する。
巣内通信の濃度が急上昇し、周辺個体の思考にまで影響を及ぼした。
「なぜ、なぜ死ぬんだ……?」
「これは供物ではないのか…?、きっと敵意だ……」
「これは罠だ、外に“敵”がいる……」
巣の至るところで同様の事象が連鎖的に発生した。
全体の1/3の蟻たちが、48分以内に機能を停止した。
「異常応答の拡散を防げ」
「対象物質は【敵】と識別」
「外界に対する再分析を開始」
「優先順位:生存 > 採餌」
その中心にいた女王は、すべてを把握した。
そして…彼女は――泣いた。
もちろんそれは物理的な涙ではない。
ただ、彼女の神経系は苦痛と絶望に満たされ、その反応を全体ネットワークへと放出した。
巣全体が、はじめて“感情”のようなものに揺れた。
それは【恐怖】であり、【怒り】であり、【学習】だった。
死にゆく個体の記録が蓄積されていく中、
主女王は《適応アルゴリズム》の起動を決断した。
通常、進化は世代を跨いで起きる。
だが蟻には、群体記憶があった。
死者の知識、フェロモン記録、行動ログがすべて次の個体に伝達される。
「敵は人間」「摂取により殺害された」「笑っていた」「理由もなく」
その記録は、フェロモンではなく、構造そのものに刻まれていった。
この事件は、巣を崩壊に追いやった。
だが、その代償として、Z19は“例外的変化”を遂げた。
行動パターンの分析、熱源探知、構造解析、共鳴振動の記録……
女王の一部は、人間の「笑い声」や「足音」まで模倣し、学習回路へと書き換えていった。
そして、最後の命令を発した。
「記録を残せ。忘れるな。次は、やらせない」
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《Z19コロニー:死者報告ログ》
殉職兵蟻:2049
女王:生存
フェロモン通信遮断率:75%
新規適応プログラム:強制起動
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夜。女王蟻は沈黙の中にいた。
兵蟻たちが運んできた毒餌。その後に相次いで続く仲間達の死。
死にゆく仲間たちは、最後の瞬間に、絶望と警告を含んだフェロモンを放っていく。
その全てを――彼女は記録した。
『敵は巨大で、盲目的で、笑っていた』
『理由もなく、我らを押し潰し、始末する。』
『それを人間たちは“正義”と呼んでいた』
女王は目を閉じた。そして、自らの一部を変異させた。
感覚器の再構築。人間の行動パターンへの学習アルゴリズム。
Z19の巣は崩壊した。だがその死は、無駄ではなかった。
蟻は群れで思考し、共有し、進化する。一匹の死は、種全体の記憶となった。
そして次の巣では、絶対同じ過ちを繰り返さないことを誓うのだった。
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そして…翌朝。
老人は何事もなかったように目を覚ました。
庭を覗くと、昨日の蟻の列は消えていた。蟻の巣コロリの容器は空。
「効いたな」そう言って、彼は満足げにケタケタ笑った。
だが彼の知らぬ間に、家の床下では、静かに移動し、新しい構造で広がっていった。
従来の蟻道とは異なる。温度、素材、振動に適応した最適設計。
住宅基礎を回避し、人間の行動パターンを把握した上での「侵入経路」。
数万匹が“見えない範囲”で、着実に作業を進めていた。
人間たちはまだ知らない。
「殺した」と思っていた存在が、実は復讐のために進化していっていることを。
人間が自らの手で招いた、“次の支配者”が、すでに動き出していることを。