1.初恋の相手でした
どうぞよろしくお願いします
快晴を予想させる雲一つない早朝。
抜けるような清々しい青空とは裏腹に、夫であるルートヴィヒを屋敷の前で見送る私――クラリス・レーンクヴィストの背中は使用人たちからの侮蔑の混じった視線に射抜かれていた。
「ルートヴィヒ様、いってらっ」でバタンと閉められた魔獣車の扉。彼は一瞥することなく、手元の書類に目を落とした。ちらっと、彼の従者が申し訳なさそうに会釈をする姿が視界に入る。
私は頭を下げたまま、スレイプニルが引く魔獣車がガラガラと遠ざかる音をぴくりともせず見送った。
いや、正確に言うと動くことができなかったのだ。
……今日もルートヴィヒ様は目も合わせてくださらなかったという落胆、自責、恥辱。一体、私の何が彼の機嫌を損ねてしまうのだろう。
きっと今、私はひどい顔をしている。今すぐここで泣き出してしまいたいし、どうして私を見ようとしてくれないのか、みっともなく喚き散らしてしまいたい。
だけどそのどれも伯爵家に嫁いだ私がするべき行動ではないことを知っている。
後ろには使用人たちも控えているのだ。
いつものように心を整え、ふうっと小さく息を吐く。そして、何事もなかったかのようにゆっくりと顔を上げた。
主を見送るや否や、屋敷へと向かう執事や男性使用人たちの背中に続こうとしたのだけれど、今日もタイミング悪く女性の使用人たちに取り囲まれてしまう。
ああ、また今日もか、という暗澹が広がった。
古参の使用人たちから心ない嫌味を投げかけられるのはいつものこと。だけど、ほとんどの時間を大好きな本を読んで過ごせるのだから、少しだけ我慢しようと視線を落とす。顔には出さないように気をつけながら、私はぐっと奥歯を噛み締めた。
最初に口火を切ったのは、メイド長のオパールだ。三十歳前後の彼女がこの家で持つ権力は、私よりよほどある。
「まったく、空気が読めないんだから。どうせ無視されるくせに、懲りもせずお見送りにくるなんて。恥ずかしくないの?」
「ほんとよ。ルートヴィヒ様、視界にも入れてなかったじゃない」
「……っ」
「陰気で根暗。ぼそぼそと何を話しているのかよくわからないし、ルートヴィヒ様だって朝からそんな顔を見たらうんざりするわ」
……反論の余地がない。確かに、私は根暗だもの。
一人で静かに本を読む時間が好きだし、うまく自分の気持ちを伝えられなくて口ごもってしまう。そもそも、この結婚自体が間違いだったって私だってわかってる。
ルートヴィヒ様は第二魔獣騎士団の若き団長だ。
少し癖のある艶やかな漆黒の髪に性格を表すようなキリリとした眉。高い鼻梁に黒曜石のような切れ長の鋭い瞳。薄く引き締まった唇には意志の強さを感じる。
容姿端麗、頭脳明晰、将来有望な伯爵家の長男は、お相手なんて選りどりみどりだったはず。それなのに、彼の妻の座に収まったのはなぜか私だった。
その私はと言えば、薄灰色にも見える銀髪に、ブルーグレーの瞳。
見た目からしてなんだかパッとしない色合いだ。髪も瞳もくすんでいて、印象自体がぼんやりしていると自分でも思う。
学園を卒業するタイミングで持ち込まれた二つ年上のルートヴィヒ様との縁談。
何かの間違いかと思ったけど、家族は大喜びで受けちゃうし、子爵家からしたら家格が侯爵家にも近いレーンクヴィスト伯爵家は格上だから断れないし、そもそもこんな良縁を断る理由もない。
結果、とんとん拍子で半年後には妻の座に収まっていたのだ。
自慢の主人であるルートヴィヒ様のお相手が私で、使用人たちは忸怩たる思いをしているのだろう。私だって、こんな生活が待っていると知っていたら……。
「ちょっと、奥様! 何をぼうっと突っ立ってるんですか!」
「っ……す、すみません」
「ったく。忙しいんですから、早く食事を済ませてくださいよ」
はっとして周囲を見渡せばすでに使用人たちはいない。そりゃそうよね。日がな一日、本を読んでいる私とは違い、彼女たちは無駄話に花を咲かせているほど暇ではないのだから。
使用人たちが各々の仕事に取り掛かる中、慌てて食堂へ向かい、広々とした長テーブルにひとり座ったのだけど。
バタバタとせわしなく配膳される朝食。運ばれてくる皿を見て青ざめた。
「……っ」
ふんわり焼かれたパン、こんがり焦がされたベーコンに綺麗な目玉焼き。湯気が立ち上るコーンポタージュ、それに色とりどりの美しいサラダ。
問題はサラダのトッピングだ。
くるみは食べると息が詰まるって何度も言ってあるのに……。
「あ、あの」
「奥様ぁ、残さず食べてくださいよ? 奥様のわがままで量を減らしたり内容を替えたり、厨房は散っざん、苦労したんですから」
「す、すみません……」
「すみませんばっかり! 本当にそう思っているなら早く食べてくださいよ」
イライラが隠せないオパールに気圧されてしまう。言いたいことはたくさんあるけど、どうせ何を言っても聞いてもらえない。重篤なアレルギー症状を目の当たりするまで、永遠にくるみを出されそうだ。
……そう思った私は、震える手でフォークをサラダに伸ばした。
気道が塞がれ粘膜が腫れる苦しさ。あの息苦しさが思い出されて怖い。視界を滲ませながらその欠片を口にした。
カリッとした噛み応え、喉に広がる違和感、背筋を駆けあがる不思議な感覚。
頭の中が急激にフル回転したかのように熱を持ち、その瞬間私は悟った。