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「大丈夫ですか?」
後に残された僕は、同じく後に残されたその人に声を掛ける。
しかし、相手は全く反応を返さない。
男たちの手によって、壁にもたれかかるように座らされたまま、彼は身じろぎもしなかった。
僕は不安になって近づいてそっと声を掛ける。光を失った目は何の感情も宿してはおらず、見てる間に男はずりずりと体勢を崩していく。
僕は慌てて男に手をかけ、軽く揺さぶった。
そしてやっと気づく。呼吸が荒い。
とっさに手の平を男の額に当てると熱い。もう何日も身を清めていないのだろう、肌が黒ずんでいて顔色が全くわからなかった。
僕はすぐに流行り病だと見当をつける。
とりあえず場所を移さなければいけない。こんな寒空の下にこれ以上いては、ますます状態が悪化してしまうのは明白だった。
僕はそっと彼の体を支えようと、彼の体の下に腕を差し込む。驚くほど細い。恐る恐る服をめくると、あばらの浮いた不健康な上半身が見えた。さらには、鞭で打たれたりなぐられたりしたのだろう。ところどころ血がにじんでいて、うっ血したところが青あざとなって、それらが無数に上半身を覆っている。しかもよく見れば、どうやってついたのかもわからないような怪我のそのもう消えることのない痕跡があちこちに残されている。
僕はあまりの酷い彼の状態に言葉を失ってしまう。
こんな、こんなことが許されていいのか……。あまりに酷い。
しばらく茫然としてしまったけれど、はっと気が付く。早くどこか暖かい場所へ連れて行かなければ。
僕はすぐに彼を背負う。彼は僕よりもずっと背が高いけれど、がりがりにやせ細っているため、なんとか担ぎ上げることができた。それでも十分重かったけれど、僕は両脚に力を込めて立ち上がる。しかし、お互いの身長の差はいかんともしがたく、僕はふらつきながら、無理やり男を背負うと両足を抱えて、とりあえず休めそうな宿を探すことにした。
しかし、宿捜しは難航した。
すぐに見つけた一軒目の宿屋では、病人を連れていると知られるとすげなく宿泊を断られた。取り付く島もなかった。しかたなく、他を探して見つけた二軒目では冷たくあしらわれ、さらに三軒目で、けんもほろろに追い出された。
背中の彼の熱い呼吸に雑音が混じる。ひどく荒い呼吸に僕は焦りが募っていく。
どうしたら……。途方に暮れた僕は、ふと教会へ行くことを思いついた。きっと親切な教会なら受け入れてくれるだろうと思えた。
僕は疲れ切った足を叱咤しながら、最初の場所までもどる。あそこから教会が見えていたから。
やっとの思いで教会へ辿り着くと、しかし、教会に併設されている貧しい人のための施設はすでに人がいっぱいで、ベッドが無いからと断られてしまった。僕はなんとか床でもいいのでと頼み込んだ。冷たい風をしのげればいいと懇願すると、相手も僕のしつこさに折れてくれて、馬小屋の隣の物置小屋なら使っても良いという許可を取り付けることができた。
ほっとしたのもつかの間。案内されて行ってみると、小屋と呼んでよいものか疑わしいあばら家があった。壁や屋根の木板は隙間だらけで、冷たい風が吹き込むような作りだった。
僕の落胆は言葉には表せないものだった。けれど、すぐに思い直す。
路上で野垂れ死んでもおかしくない状況だったのだ。雨風をしのげる場所を提供してもらえただけでも、十分にありがたいことなのだ。感謝の気持ちを忘れてはいけない。僕は自分の心の貧しさが恥ずかしかった。
僕は案内してくれたシスターに、その親切心に対する感謝を述べた。本心から感謝の言葉が出た。すると、幸運なことに、さらに家畜の飼葉の麦わらをいくらか分けてもらうことができた。
僕はそのからからに干された麦わらを男の体に乗せ、少しでも寒くないように工夫してみたが、隙間風の冷たさを思うと、大した意味があるかは不明だった。
僕は男にまだ息があることを確認すると、心から安堵した。
まだ助かる可能性はある。
そっと彼の額に僕の右手を乗せる。
彼の整った顔には、無数の消えない傷があることに気付いた。服に隠れて見えない部分と同じように。
これほどまでに、酷い仕打ちを受けなければいけない何かが、このやせ細って弱った男にはあるというのだろうか?
悲しみが押し寄せてくる。
どうか、どうか彼が助かりますように……。
僕は彼の魂に祈った。彼の生きる意志に祈った。
そのとき、ふいに死んでしまったおじいさんとおばあさんのことが思い出された。
二人の優しい声や笑顔が思い出されて、苦い後悔が押し寄せてくる。僕はそれを振り払うように幾度か頭をふる。余計な考えは集中を乱すから。
すると、おもむろに彼の閉じていた両目が開かれるのを見た。
綺麗な黒い瞳だった。まるで、夜の闇を掬い取ったかのように。
意識がまだはっきりしていない男と僕の目が合った。僕は、彼の反応を待ったけれど、その目には何の感情も現れていなくて。ただ、男が生きるのを放棄しているということだけがはっきりと分かった。
僕はこういった目を何度か見て来た。彼らは失意のまま死んでいった。絶望の暗闇の中、彼らに言葉は届かなかった。
名も知らないこの人も、彼らのように死んでしまうのだろうか。
駄目だ。
そんなことは駄目だ。
人は何のために生まれてくるのか。幸せになるためではないのか。
僕はそっと男の額に手を当ててその熱に、男が生きている証である燃えるような熱に意識を集中する。
頭の片隅で、警告を発する自分がいる。
けれど、僕はその声を無視する。
おじいさんとおばあさんを助けたかった。助けられたはずなのに、そうしなかった自分を、僕はずっと責めてきた。
僕は人間だ。後悔の無いように生きていきたい。そうせねばならない。
だから、僕は自分の心の囁きを無視した。
彼の額に乗せた手に力を籠める。
どうか……。
僕は男が少しでも回復することを信じて、そっと目を閉じた。意識を、深く深い底へと沈める。
それから、一昼夜僕は片時も離れることなく男の側についていた。目を離したら、その間に死んでしまうような気がしたから。
看病といってもほとんどできることといったら額に手を添えたり手を握ってあげたりすることと、水を飲ませること、炊き出しの粥をもらってきて口に流し込むことだけだった。
枯れ木のようにやせ細った手足が凍傷にならないよう、僕は祈りながら温め続けた。時折、彼がうなされるように、声を漏らす。どんな悪夢を見ているのか。僕は彼のこれまでの身の上を想像するのが恐ろしかった。
三日目の朝、やっと男の熱が少し下がったのが分かった。良かった……。
僕はもっと滋養のあるものを食べさせるべく、後ろ髪を引かれるような心地で、けれどそれを振り払って教会へ向かうことにした。
彼を一人にしてはいけないと思ったけれど、それ以上にお金を工面しなければならないと思ったからだ。一文無しになってしまい、碌な食べ物を与えることができない。それでは、体力をつけることができないだろうと思った。
見上げた教会は僕を圧倒した。
最初ここにきた時、僕はあまりに慌てすぎていて、じっくりと見る時間がなかったから、改めてよく見て驚いてしまった。これほどとは思わなかったのだ。
初めて足を踏み入れた大伽藍は巨大の一言だった。
そして、同時に恐ろしいほどに荘厳で、とても素晴らしかった。天上の楽園を地上に体現したかのような、白亜の柱と光を受けて輝くステンドグラスが、この世の物とは思えないほどに美しかった。
美しくて、それなのに、病人一人を受け入れるのもやっとなほどであるというちぐはぐさが、僕には理解しがたかった。
教会関係者を捕まえて、教会の横で商売をしても良いか尋ねてみた。
何をするのか問われたので、占いですと答えると、ちょっと怪訝そうな顔をされたが、変な騒ぎを起こさなければ、教会の関与を謳わなければ構わないと許可をもらうことができた。
僕は早速教会の入口側、大通りで占いを始めることにした。
母から教えてもらったおまじないの一つだった。
他の人のやる占いは当たる当たらないは気の持ちようというものであったが、母の占いは人気があった。その母から教え込まれたこのおまじないに僕はそこそこ自信があった。
僕の占いはおまじないの一種で、道具が無くても問題はなく、手ぶらでできるのが良かった。僕の呼び込みに興味を持ってくれる客がいさえすれば、なんとか糊口は凌げると踏んでいた。
ただ、母のような神秘的な見た目を持っているわけでもなく、なんの変哲もない若造の僕の占いを、にわかに信用するのは難しいのだろう。客はぽつぽつとしか現れなかった。占いという神秘に頼る技術は、見た目も神秘的でないと客が寄り付かないのよと、母がよく言っていたのを思い出す。
それでも、数人から安く設定した鑑定料をもらって、それを握りしめて市場へ走った。病人にも食べやすいものを。少しでも滋養のあるものを。
僕はいくつかの野菜や穀物を買い、教会で調理設備を借りると、温かい粥を作って、男に食べさせた。まだ、あまり意識がはっきりしないようで、なかなか自分では食べられないようだった。
僕がいない間に熱が上がっているかもと心配したけれど、運よくそんなことはなく、食欲が満たされた男を介抱しながら、再びまだ熱を帯びる秀でた額に手の平を沿わせた。
諦めないでと、そう祈る外なかった。
僕は一心に、この人が良くなるように一晩中彼に祈った。彼の生きる意志に祈り続けた。
翌日にはさらに熱が下がり、その翌日には微熱と呼べるくらいの体温になった。まだ咳があるが、直に収まるだろう。
ここへ来てから初めて男の意識がはっきりと回復した。良かった。
「大丈夫ですか?」
僕が声を掛けると、男がその瞳に人間らしい輝きを取り戻しているのが分かった。
なんどかぼんやりする意識をはっきりさせるように頭を巡らせる。それから、徐々に覚醒した彼が、自分に何が起きたのかを確認するように周囲を窺い、そこが今にも崩れそうなあばら家の中で、自分が麦わらの中に寝かされているのを認め、やっと最後に僕の方を見た。
僕が誰か分からないのだろう、不思議そうな顔をしてみせ、それからこちらの動向を窺うように視線をさ迷わせた。
「あなたは……?」
声は少しざらついていたが、低く落ち着いていた。男らしい太い声の中に、少しだけ甘い響きがあった。
「ここはどこでしょうか?」
「ここは教会の敷地内にある物置小屋です。ここしかあなたを寝かせる場所が無いと言われたので、僕がここへ連れてきました。体調は大丈夫ですか?」
僕の言葉を聞いて男が、時間をかけて僕の言った言葉の意味を理解したようだった。しばらくして、彼が慌てて体を起こそうとした。熱が下がったとは言え、体力は落ちたままだ。男は眩暈を感じたようにバランスを崩して倒れ込む。
僕は急いで男の上半身を支えると、そっと横になるのを手伝った。
「すみません」
「まだ熱が下がったばかりで、体調は万全ではないのです。ゆっくり休んでください」
「ですが……私の主人が……」
「大丈夫ですよ」
「私は奴隷なのです。主人から離れてこんなところにいるのが知れたら、どんな酷い罰を受けるか。それに、あなたにもご迷惑が掛かってしまいます」
そういう彼は、自分の主人が僕に変わったことを知らないようだった。さもありなん。仕方ないともいえる。
「大丈夫です。落ち着いてください」
焦り始めた男を落ち着かせるために、極力刺激しないように意図して優しく聞こえるような声音で話しかける。しかし、その顔に浮かんだ恐怖の表情は消えない。
「しかし!」
「あなたは覚えていらっしゃらないでしょうが、奴隷契約に変更があったんです」
僕がそう言うと、意味を図りかねたという風に、男が不思議そうな顔で僕を見つめる。その黒い瞳はとても美しかった。
「僕があなたの主人になったのです」
「え?」
ぽかんと口を開けて呆けたその顔が面白くて、僕はつい笑ってしまった。
「僕があなたを買ったのです。だから、もうあなたは誰からも叱られたり殴られたり蹴られたり、酷いことをされたりはしないのです。だから、安心してここで休んでください」
それを聞いた男は即座にがばりと起き上がると、ふらつく体を無理やり動かして僕の目の前で土下座をし、額を地面にこすりつけながら申し訳ございませんと大声で叫んだ。
それは突然のことで、僕には何が起きているのか頭が追い付かない状況だった。
「顔をあげてください」
僕が慌てて言うと、その言葉に男が顔をあげた。そこに、ありありと困惑の表情が見て取れる。
「落ち着いて下さい。体に障りますよ」
「信じられない……」
「本当のことですよ。覚えてませんか?」
「そんな……でも。でも、そう言えば……。では、昨日のあれは夢では無かったのですか?」
本当はもう数日前のことなのだけど、気づいていないらしい。それでも朧げながらあの日のことを思い出せたようだ。
僕は安心させるために頷いてみせる。
「私があなたの新しい主人です。だから、安心して寝ていてください」
「いえ、そんな!あ、新たな主人であると露知らず、このようにのうのうと眠りこけて、あまつさえ大変な無礼を働き、本当に本当に申し訳ございません。どのような罰も甘んじて受け入れます。ですが!今後誠心誠意あなた様にお仕えすると誓います!だから、どうかどうか体調が恢復するまではご容赦賜りたく!」
彼の全身がぶるぶると震えている。それはいっそ痛々しいと言っても差し支えのない様子だった。
「いや、そんなこと気にしなくてもいいんだよ」
そう言って落ち着かせようとするけれど、彼の目には警戒の色が濃い。ますます声は大きくなり、もはや悲鳴のようだった。
「いえ!いえ!許されません!わかっております。ですが、どうか!どうか!」
僕は男の頑なな態度に混乱しながら、彼を必死になだめるほかなかった。
彼を痛めつけるつもりは毛頭ないことを繰り返し繰り返し言って聞かせたが、全く信じてくれるそぶりは見せなかった。
あまりに彼が大声を出すものだから、教会の人が何事かとこちらにやってきてしまい、更に男を恐縮させるという事態になってしまった。
ただ、教会の人が登場したおかげで、彼の恐慌状態は一旦落ち着くかたちとなった。
僕はふらつく彼に黙って横になるよう命令した。命令でなければ、彼は納得しなそうな雰囲気だったから。そして黙って横になってなお、こちらを窺い見ている彼を横目に、僕は考える。
とりあえず彼が動けるようになったことで、もっとましなところに移動することができる。温かい場所に移ることができる。それは僕の当初の願いだ。だいぶ容体が良くなったとはいえ、彼はまだ病み上がりなのだ。もっとしっかり休まなければ病気もぶり返してしまうし、きちんとしたものを食べさせたい。
あぁ、そうだ。病気の症状はおさまったのだから、もう宿に泊まることもできるはずだ。
そこに思い至ると、僕の心は少しだけ軽くなる。よし、移動しよう。
そうと決まれば行動は早い方がいい。
未だ病み上がりに活動を始めようとする彼を無理やり魔法で眠らせ、僕は必要なものを揃えるために、自分にできることに精を出すと決めたのだった。