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※一話二話を再編しなおしました。
ゆっくりと目を覚ます。深い眠りから覚めたように、すっきりとした目覚めだった。もし、晴れた朝だったなら、そのまま飛び起きて朝の身支度に何の憂いもなく取り掛かれそうな、そんな心地よい目覚めだった。
けれど、目を開いたはずなのに、目に見えるのは暗闇以外には何もなく、自分が本当に目を開いているのか、それともいまだに閉じているのか、にわかには判然としなかった。
だから僕は、馬鹿馬鹿しくはあるが両手で自分の顔を触り、指先で自分の目が位置するはずの場所をなぞって、本当に目が開いているのかを確認しなくてはならなかった。
そうすると、徐々に頭が働き始める。少しずつ。自分に起こった出来事を、思い出し始めた。
思考が急速に活性化し、頭の中をいろいろのことが一足飛びに駆け巡って、そして……。
そして、僕は一つのことを思い出すに至った。
「ああ」
と吐息のような声が口からこぼれた。それはひどく掠れていて、さながら長い間大声を出した後のような、喉がひりつくような感覚があった。
それと同時に、僕はとめどなく涙をこぼすのだった。温かい雫が目からあふれ、顔の両側、耳の付け根へと流れ落ちた。
ただ、悲しかった。
どうしようもないことが、ほんとうにもうどうしようもないほど過去へと流れ、もう何物にも触れることができないのだと理解した悲しみが、僕を絶望の淵へと追いやったから。
嗚咽は、しかし声にはならず、ただ掠れた息だけが口からとめどなく零れ、僕はそうして自分が涙に溺れてしまうのではないかと思った。
両手で僕の顔を覆って、どうにもならない現実に耐えるために、その苦痛を別の痛みでもって紛らわせるように、強く強く顔へ爪を立てた。
でも、痛みは痛みでしかなく、僕のこの悲しみを少しも和らげてはくれなかった。ただ痛みだけが、現実を僕に痛みとして実感させてくれるのみだった。この痛みのために死ねたならと、ひどく感傷的で子供じみた考えが脳内の大半を占めていた。
そうして、僕はまた知らぬ間に眠りに落ちた。
泣きながら眠ったからだろうか、二度目の目覚めはあまり快適なものではなかった。頭がいささかぼんやりして、じっとりと汗をかき、悪夢から目覚めたときのような嫌な倦怠感が全身にわだかまっていた。
このまま、死んでしまいたかった。死んだら向こうへ、母のいるところへ行くことができるだろうか。
でもそれは許されないのだと思った。僕が生きることこそが、母の願いだったから。
僕は、小さい子がどうにもならなくてイヤイヤするように、現実を受け入れがたい心持を抑えるのにひどく苦労して、やっと起き上がることができた。
静かだった。ほとんど空気の流れもない。
かすかに自分の着ている服の衣擦れの音が耳に届いた。
そして、ここから出なくてはと唐突に思いついた。
暗くて周りが見えなくても、記憶の中の自分のいる場所を思い出し、どのように移動すればよいのかはわかっていた。
だから僕はゆっくりと自分が横になっていた台座から起き上がると、両足を移動させ、ただしく地面へと足をつけた。二度三度地面の硬さを確かめてから、両足に力を込めて立ち上がる。問題なく立ち上がることができた。
それから僕は、自分の右側へ体の向きを変えると、少しずつ慎重に移動した。躓いたりしたら大変だ。両手を前に伸ばして、いつでも扉へぶつかってもいいように構えながら、二歩三歩と歩みを進める。
あまりにもゆっくり移動したため少し時間が掛かってしまったが、やっと指先に硬いものが触れる。たしかに記憶の通りそこに扉があった。僕はその扉を力を込めて押した。
しかし、動かない。ぐらついた様子もない。
もう一度ぐっと押す。さっきよりもちょっと強い力で。
やっぱり開かない。
僕は少しだけ焦った。本来なら、女性一人の力でもぎりぎり開けられる重さの扉だったはず。つまり、何か、問題が起きて上手く開かなくなってしまったのだろう。
あれからどれだけの時間が流れたんだろう。扉が開かなくなるほどの時間が経ってしまったのだろうか。もしかしたら外が崩れて土砂に埋まってしまったり、何か障害物が扉をこちら側に押しているせいで開かないのかもしれない。
もしそうならばまずいと思った。
せっかく目覚めたのに、これでは外に出られずただ死を待つだけになってしまう。何のために眠りについたのかわからない。
もう一度挑戦する。
両手を扉に垂直にたてて、軽く力を籠める。
石でできた扉の表面はざらざらしていて、それからひんやりとしている。
僕は両腕に徐々に力を込めていき最終的には全力に近い力でもって扉を押してみた。それは、最初はうんともすんとも言わなかったが、反発しながらもわずかに開く気配があった。
もっと。
僕は体勢を変え、両手ではなく右上半身を扉に預ける形になって、再度全身に力を込めて扉を押した。全身から汗が噴き出す。
はやる気持ちと裏腹に、扉はもったいぶるようにちょっとずつしか動かなかった。それでも、動くということは外に出られるということだ。二度三度、僕は扉に体を打ち付けるようにぶつける。痛いけれど、今は痛みになんてかまっていられなかった。
そうしていると、微かな空気の流れが起きた。
僕は外に出られる期待に胸が膨らむような気持になる。期待が全身に力がみなぎらせる。一人だけの部屋の中で大きな声を出して自分を鼓舞すると、それとともに勢いをつけて思いっきり扉を押した。
今までよりもはっきりした手応え。ゆっくりと扉が開いていくのがわかる。動き出した扉に、両脚に精一杯の力を籠めて全体重を扉に乗せながらさらに押す。
光が、薄い隙間から漏れ始めた。
長い時間が掛かって、とうとう重い石の扉が開いた。柔らかな光がきらきらと輝いて暗闇を取り払い、それと同時に扉の向こうから色々な音が洪水のように押し寄せてきた。
僕は早鐘を撃つ心臓に鞭打つように、休む間もなく扉の隙間から体を引きずり出す。そして、短い横穴を通ってやっと光の中にまろび出た。
僕は外の世界のまぶしさに目を細める。それからやっと光に目が慣れたころ、辺りを見渡すとそこは森だった。
驚きにぼうっとしている僕の全身を柔らかな風が包んだ。
暖かな木漏れ日が地面に美しい濃淡を生み出している。緑の世界。濃い草木の息吹が僕の鼻腔をくすぐった。
思い切り息を吸い込むと、爽やかな香りと自然の精気が肺を満たした。
素晴らしい。柔らかな土の感触も心地よかった。
けれど、ふと気づく。
ここに森なんてあっただろうかと。確か、ここは集落の外れの崖下で、木々は燃料や建材にするために切り倒され、開けた土地だったはず……。
いったいどれだけの時間僕は眠っていたのだろうと、先ほどの疑問が首をもたげた。
そうして自分の考えに沈み始めたとき、近くで人の声がした。
全然周囲に気を配っていなかった僕は飛び上がるほど驚いて、その声の方へ顔をとっさに向けると、そこには腰を抜かしたように、地面に這いつくばる老婆の姿があった。
ああ、あ、と驚きに声にならない声をあげ、両の目は限界まで開かれている。髪はすっかり白くなり顔もしわだらけの高齢の女性だった。もうだいぶ高齢なのだろうけれど、見開かれた青い目は、曇りなく澄んでいて、子供の目のようにキラキラと輝いていた。
僕は、極力彼女を刺激しないようにゆっくりと近づいて、大丈夫ですかと声をかけた。できれば笑顔も浮かべて敵意がないことをアピールしたかったけど、上手く表情を作ることができなかった。
僕の言葉に女性がはっとして起き上がろうとする。しかし、どうやら腰が抜けてしまったようでそれは上手くいかないようだった。
僕が一歩一歩近づくと、彼女はお尻を擦るようにしながら後退った。
「驚かせてしまいすみません。大丈夫ですか?」
僕はできるだけ優しく聞こえるよう声音を調節しながら、再度声をかけた。
彼女はそこで僕の言葉の意味が分かったように、大きく頷き、そして大きく頭を横に振った。
酷く混乱してしまっているのだろうと思うと、これ以上近づいて怖がらせてもいけないと思った。
だから僕は静かにしゃがみ込んで視線を低くし、なるべく視線の高さを揃えようと思った。怯えた子供をあやすときの要領だ。
「お怪我はありませんか?」
僕が高めの声でゆっくりと声をかけると、お婆さんは神様……と何か大きな勘違いからくる言葉を零した。びっくりした。
いやいやいや!なんで?
「……違いますよ」
僕はそう言ったけれど、お婆さんは急に土下座の体勢をとって地に伏してしまった。
どうしたものかとあたりを見回すと、僕が出てきた石室の扉のあたりが祭壇のように祭られているのが目に入った。
石室の石扉が倒れて、その祭壇を破壊してしまっていたけれど、残った部分から推察できた。
なるほど……。
どこかから摘んできたのだろう野の花と、何かお供え物が地面に散らばっていた。出てきたとき全く気付いていなかった。よく見ると、おばあさんの足元にも、摘んできたばかりの花が散らばっている。
僕は盛大な勘違いをしているお婆さんに慌てて、でもできるだけ音はたてないように気を配りながら近づくと、その小さな両肩に手を置いた。
「違いますよ!僕はただの人間です!」
「神様!」
彼女ははっとして顔を上げると、僕の顔をまじまじとみて、そして恐れ多いというように驚愕の表情を浮かべて再び地に額をこすりつけるように、ますます頑なに畏まってしまった。
彼女の何か呪文のような、祝詞のようなものをぶつぶつ唱え続ける声だけが、森の中に溶けて消えていった。
あの後、僕はやっと動けるようになった彼女の家に連れられて行くと、色々ありつつも、あれよあれよという間に共同生活が始まってしまった。神様うんぬんの誤解を解くのに苦労したのだ。
それから、言葉が微妙に違ってて、生活の作法もなんだか違っていて、いっぱい失敗してしまった。
「ただいま」
僕が家に戻ると、おばあさんはいつものように僕のほうへ微笑んでくれる。
「おかえり。疲れたでしょう。お茶にしましょう」
そう言って、痛む膝を伸ばして立ち上がろうとするのを、僕は慌てて押しとどめる。
「いいよ、僕が淹れるから。ゆっくりしてて」
そういって、僕は手を貸して再度椅子に座らせる。おばあさんは、ありがとうと言って、途中だった編み棒を持って、僕の方を見ながら器用に編み物をする。手元も見ずに片時も休まず、まるで手だけ別人のもののように動かす様は、本当に見事としか言いようがない。
僕が、小さな火を熾してお湯を沸かし始めると、遅れて庭仕事を終えたおじいさんが家に入ってくる。
おかえりとお婆さんが声を掛け、彼女の隣の椅子に腰かける。
おじいさんは腰がだいぶ痛むようで、ゆっくりと体を曲げて、静かに静かに腰を落とす。わざとではない、無意識の安堵の言葉が、その口から零れ落ちた。
僕はその奇妙で意味のない安堵の言葉が面白くて、ついくすくすと笑ってしまう。何度聞いても可笑しいのだ。
「おや、ユージン。お茶を淹れているのかい?それなら、私の分も頼むよ」
そうおじいさんが言う。もちろん、僕は全員分を始めから用意するつもりだったので、軽く了承の返事をする。
「寒さが身に染みる。雪が降らないだけまだいいけれど、やはり手や足の先がかじかんで、上手く仕事ができないねぇ」
「ええ、本当に。私も、指先が冷たくて。編み物が全然進みませんよ」
「薪をもっと燃やして部屋を暖めたいけれど、去年用意した薪がもつかな?もう少し頑張っておけばよかったねぇ」
僕は、家の外に積まれた乾燥済みの薪を思い浮かべる。
「でも、寒さは平年並みだから、きっと問題ないだろう。万が一にでも足りなくなったら、ご近所さんからもらってくるから、ユージンは心配しなくてもいいんだよ」
僕は知らず不安そうな顔をしていたらしい。おじいさんが優しく言う。僕はその言葉にうなずいて、沸いたお湯をポットへ移す。
三人分のカップとポットを持って、テーブルへ移動する。
そろそろいいだろう。ポットからカップへとお茶を注ぐと、良い匂いが部屋に立ち込める。
「安物のお茶だけれど、ユージンが淹れてくれるといつもおいしいねぇ」
おばあさんが一口飲んで僕に語り掛ける。
おばあさんの言葉に、おじいさんも頷く。
「ユージンが来てくれたおかげで、庭仕事も捗るし、薪割りもどんどん進むし、家の中は綺麗になるし、畑の手入れも行き届いたし、本当にありがとう」
おじいさんが僕に優しく言う。おばあさんも笑っている。
「そんなことはないよ」
そう言って、僕も淹れたお茶が冷める前に一口。
野草を干して炒っただけのお茶だ。夏におばあさんと一緒に、山で摘んできた薬草茶。
ほのかに苦くて、でも、ほっとする味だ。
穏やかに時が流れる、このお茶の時間が僕は好きだった。
おじいさんとおばあさんに会えた幸運を僕は噛みしめる。
二人に初めて会ったときが自然と思い出される。三年前の春のことを。あっという間だった。
僕が山の中で迷っているところを見つけてくれたおばあさん。
行く当てのない僕を家に置いてくれることを決めたおじいさん。
二人に出会えたことは、僕にとって大げさでもなんでもなく、まさに僥倖だった。
だから、朝起きて挨拶をして、おじいさんと庭仕事をして、三人で朝ごはんを囲み、夕方帰ってきて家の手伝いをして、三人で夜ごはんを食べ、他愛ない会話をして眠りにつく、そういった何気ない日々に、僕は感謝する。
僕には二人にも話せない秘密があったけれど、二人は全然詮索もせずに、この家に置いてくれた。一人ではどう考えても生きて行けそうになかったから、僕はその感謝の気持ちを毎日の行動で返したいと思っていた。
僕がこの家で暮らすようになってから、二人には文字や言葉や簡単なこの国の歴史や宗教についても教えてもらった。僕はあまりに無知で話し言葉も微妙に二人とは違っていて、簡単な歴史や宗教的な作法をしらなければ後々困ったことになるだろうと言われたから。
二人から聞くこの国の簡単な歴史はとても興味深かった。
そして、それによって、僕が眠りについていた期間が数百年にも及ぶということも分かった。信じられないけれど、本当らしい。
つまり、僕が眠りにつく原因となった大災害を僕もこの世界も上手く生き延びることができたということだ。それからずっとこの国は滅びることなく存続し、その後周囲のいくつかの国を飲みこんで、帝国と呼ばれていることも知れた。
実際、あの石室の周りの開けた土地が森へと変わってしまう程度には長い年月がたってしまっているのだから、にわかには信じがたい話もすんなりと受け入れることができた。
それから家事や庭仕事なんかのたくさんの日常的なことも二人に教わった。籠の編み方や食べられるキノコや野草の見分け方。適切な肥料の撒き方に野菜の機嫌の取り方などなど。色んな日々の細々としたこと。
僕がここで暮らす様になって一番驚いたことは魔法だった。
僕にとっての魔法とは、限られた者しか行使することが難しい技術だった。そういう認識のものだった。たしかに魔力自体は誰にでも宿っているとされていたが、それを魔法という形、炎だったり雷だったり、或いは物を動かすといったものは、誰にでもできることではなかった。
ところが、今の人々は簡単な魔法であれば誰もかれもが自由に使えるという。もちろんおじいさんおばあさんの使うものは、僕の知っているものよりずっと小規模なものだけれど、魔法には違いない。
なんと、二人の話によれば、なんでも学校というものが教会に併設されていて、そこで誰もがごく簡単な魔法学べるのだと言う。さらには算術・歴史・文字までも一通り教えてくれるらしい。昔は文字や算術なんて勝手に教えようものなら、捕まって投獄されたり殺されたりもしていたのに。
そして、その学校は強制ではなく自由参加なので、誰もが文章をすらすら書けるというわけではないようだったけれど、自分の名前くらいはたいていの人が書けて当たり前で、火熾しや物の浮遊などの便利な魔法もまた誰もが使えるようだった。竈に火を熾すようなときには便利だけれど、誰もがいくつかの簡単な魔法を使えるということが、僕には驚きを通り越して恐ろしかった。
僕は完全に時代においてきぼりだった。
だからおじいさんとおばあさんに文字や基礎的な魔法を教わって覚えねばならなかった。当たり前のことができないというのは、良くない意味で人の関心を買ってしまうだろうことが想像された。僕は人に紛れて生きて行かねばならないのだ。そう強く諭され教えこまれて生きてきたから、目立たずにいるために頑張って覚えた。
おばあさんは、僕に教えるのがよほどうれしいみたいで。できの良くない僕に根気よくなんども教えてくれた。そのおかげで、小さな火を灯したり軽いものを動かす程度のことはできるようになった。
楽しい日々だった。
幸せな日々だった。
こんな日々がずっと続くと思っていた。