第8話:独り言
カビ臭さが充満する閉鎖的な空間で、灯油式のランタンが部屋全体を淡く照らす。
薄暗い室内に浮かび上がってくるのは、人影が二つ。一つは、簡易的なテーブルセットに腰掛ける大人の影。もう一つは、部屋の中心で縮こまる小さな影。
赤橙色の明かりに照らされて、大小二つの人影が見えてくるものの――光源が頼りないせいで、ここがどういう空間なのか、二つの影の正体が何者なのか、その全容を明らかにすることは難しい。
「……全部お前のせいだ」
薄闇の中、大人の影が何かを語りはじめる。声は低く淀んでいて聞き取りづらいが、その声音から性別が男性である事が判る。
男の言葉は、もう一つの影に話しかけたわけではない。ふとした考えを言葉に出したような、いわゆる独り言の類だ。
「お前のせいで人生が狂った」
ぼそりと独り言をこぼす。
特定の誰かに向けられたであろうその言葉には、どろどろした感情が滲んでいる。
「なのに、お前だけ普通に生活しているなんてズルい。おかしいだろ」
独り言を重ねる度、声量が徐々に上がっていく。
ランタンに照らされた男の影が揺れ、ガシガシと頭を掻きむしる姿が影絵のように浮かんだ。
抑えきれない鬱憤を何かにぶつけたい、そんな心情が映し出される。
――男の思考は怒りに染まっていた。
感情を吐き出して、そのまま気持ちが晴れてくれればよかっただろう。しかし現実は真逆で、意識すればするほど男の苛立ちを強めていく。
「ああくそッ、お前を見つけた時、俺がどんな気持ちだったか分かるか? 分からねえよな!」
ガタン。閉鎖的な空間に床を叩いた音が響く。声を荒げた男が勢いよく立ち上がったことで、反動で椅子が倒れたからだ。
けれど、男はそんな些事を気にするそぶりもなく。体の向きを変えると、床にうずくまる小さな影の方へズカズカと歩み寄っていく。
「俺の人生を壊したのに! 自分だけ新しい環境で楽しそうに暮らしやがって!」
そう叫び。怒気に満ちた声を荒々しく飛ばしながら、まるで地団駄を踏むように――小さな影を何度も踏みつける。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな、と何度も独り言を繰り返し、同じ数だけ激しく足を踏み鳴らす。
「俺が、どれだけこの瞬間を待ちわびたか――お前には分からないだろ」
小さな影を踏みつけ、男の独白は続く。
攻撃的な心情に支配された部屋の中。感情の高ぶりに呼応するかのように、ランタンの火先がたゆたい、男の影を妖しくゆらした。
「――これはお前への復讐だ」
***
時は遡り――半刻(約一時間)ほど前。
夜の帳が完全に下り、辺りの民家から夕飯の香りが漂いはじめる頃。日課である巡警を終えて、自宅への帰路をたどるダインの姿があった。
集会で村長に頼まれた通り、今日からさっそく巡警の範囲を広げた結果、いつもより帰る時間が遅くなってしまい、ダインは小走りで自宅に向かっていた。
(……今のところ特に異変を感じないが、不審者の手掛かりも見つかっていない。明日はもっと奥の方まで見回りの範囲を広げてみるか)
走りながら、今日の巡警結果を振り返る。
昼間の集会の後――駐在騎士として職務に真面目なダインはすぐさま行動に移し、不審な人物が目撃された場所を中心に森の中を巡回した。
しかし、今日の今日で異変が見つけるわけもなく。特段目立った事案は起こらないまま、本日の見回りを終えていた。
(――まずいな、こんな時間になってしまった。シャウラが腹を空かせて待っている。急いで帰って晩ご飯を準備しなければ)
不審者の件が落ち着くまでは、チヨ婆にシャウラの事を頼んだ方がいいかもな。
解決するまで長引きそうだし、明日の朝イチにでもチヨ婆のとこへ寄って、さっそく相談しよう。
そんな事を考えながら、小走りで自宅にたどり着いたダインは、そのまま庭を通りすぎて玄関の扉に手をかけた時、ふと違和感を抱いた。
「……家の灯りが付いていない。寝ているのか?」
たしか今朝、寝不足だと言っていた。帰る時間が遅くなり、待ち疲れて眠ってしまったのだろうか。
そう短く結論づけたダインは、ドアの鍵を開けて家の中に入る。
すぐに部屋の灯りをつけ、廊下を歩きながら「すまない、帰るのが遅くなった」とシャウラへ言葉を投げかけるが――それに対する答えは返ってこない。
「……シャウラ? 寝てるのか?」
掛け布団をめくって探しても、シャウラはいない。
「……どこだ? ……トイレか?」
トイレ、浴室、押入れを順番に開けて探し回るが、シャウラの姿は見当たらない。
どこにいる? その問いかけに反応は返ってこず、ダインの言葉は空気に溶けてただ消えるだけ。
「――ッ! まさか……!」
シャウラが家にいない。その事実を把握した途端。ダインの頭の中ですぐにひとつの可能性が浮かび上がる。
シャウラがこの時間帯に出かけるわけがない。彼が活発に動ける状態ではない事は、ダインが一番分かっている。
自発的な外出でないのであれば――。
ちょうど今日、集会で聞いた不審者の話。
嫌でもタイミングが合いすぎている。むしろ関連性を考えない方が不自然だ。
――シャウラが誘拐された。
そう推測を立てた瞬間。同時に、それが外れていて欲しいという気持ちが芽生える。
いや。まさか、ありえない。もしかしたらチヨ婆のところで晩ご飯を食べているだけかもしれない。急に新しい友達ができて、この時間まで遊んでいるのかもしれない。
そんな希望的観測を考えてしまう頭を、ダインはすぐさま切り替える。
(――落ち着け。一回状況を整理しよう)
焦りすぎて考えがまとまっていない。自らの精神状態を改めて自認したダインは、ひと呼吸置いてからもう一度部屋の中を見渡す。
(部屋の中を荒らされた形跡はない。……いや、待て。そもそも帰ってきた時に家の鍵は閉まっていた。つまり、家の中には入ってきていない)
顎に手を当ててさらに考える。
(……そうか。庭か。シャウラは日課で薪割りをしている。薪割り中に誘拐された?)
バッと顔を上げて玄関の方に視線を送る。
家の中ではなく外。そう推測したダインは考えるよりも先にランタンを手に取り、扉を蹴破るような勢いで外へと飛び出す。
それから薪割り台に着くや否や。手に持ったランタンで庭を照らして、周囲の様子を探ると――中途半端に割られた薪や地面に転がる腰鉈が。
(……シャウラが作業を放り投げてどっかに行くわけがない)
どう見ても、作業中のまま放置されている。その光景を見れば、ここが誘拐現場だと分かってしまう。否が応でも確信できてしまう。
ダインの奥歯がギリリと鳴った。ランタンを握る手にも力が入り、金属の持ち手がひしゃげる音が聞こえてくる。
(……くそッ! シャウラが狙いだったのか!)
焦り、怒り、恐怖、様々な感情がダインの心を掻き乱す。胸が締め付けられて、呼吸が浅くなっている事を自覚できる程、今のダインに余裕はない。
シャウラはどこだ? 無事なのか? 誰が連れて行った? 目的はなんだ? 何か手掛かりはないか?
生きた心地がしない。普段仏頂面な彼からは想像ができないほど、悲痛な面持ちを浮かべるダイン。
(今すぐに助けに行かなければ。何でもいいから手掛かりがほしい。小さな痕跡でもいい!)
焦燥に駆られる中。乱暴気味にランタンで周囲を照らし、痕跡になりえそうなものを探すと、地面に転がる腰鉈の下に――腰鉈を重し代わりにして――置かれている手紙を発見。
「――ッ」
即座に手紙を拾い上げ、中身を確認。
目を走らせ、手紙を読み進めていくと、無意識のうちに紙を持つ手に力がこもる。
手紙は一枚だけのようで、綴られている文章は多くない。短い時間で読み終えたダインは手紙をポケットに押し込むと、すぐさま行動に移した。
(待ってろ、シャウラ。すぐに助けるからな)
ダインは誰にも相談せずに。即決即断で村の門を飛び出し――たった一人で夜の森へと入ると、臆することなく全速力で走りはじめた。
向かう先は、手紙に記された地点。シャウラがいる場所を目指して。
『必ず一人で来い。そうでないと子供は殺す』
手紙に書かれた一文。その内容を思い返しながら、闇夜に染まった真っ暗な森をダインが独りで駆けていく。
感情の乱れのせいか。心なしか、いつもより空気が薄く、暗闇の濃度が高い。そんな錯覚を抱かせるような冷たい夜だった。