第7話:夕暮れ時
シャウラがダインに保護されてから、早くも三ヶ月の月日が経ち……ようやくシャウラは、まともな会話ができる状態にまで回復していた。
しかし、それはあくまでも表面上での話だ。
ダインが踏み込まないように気遣っている部分もあるが、シャウラから”あの日の出来事”を口にすることはなかった。
それでも――ダインは詳しい事情を知らないままでも――何も聞かずに、無償の優しさでシャウラを受け入れていた。
今の状態を続けることはよくない。せめて、簡単な事情だけでも話すべきだ。
シャウラ自身、頭の中で分かってはいても。言葉で伝えるためには、あの出来事と向き合う必要がある。
……だが。それは、十歳にも満たない子供とって、あまりに残酷すぎる試練だろう。
今はまだ、言葉にすることも、現実に向き合うこともできない。懺悔すらも許されない状況の中、シャウラは心の内でひたすら“自責”を繰り返す。
僕の軽率な行いが、村の滅亡を招いた――。
ロビウスという名の悪逆が根源とは言え、それを招き入れたのは紛れもなく自分だ。そう考えるシャウラは、唯一生き残れた自分自身が許せず、憎しみの矛先を自らに向けていた。
「シャウラ、仕事に行ってくるぞ」
朝。寝不足ぎみのシャウラの耳に、壁の向こう側から野太い声が届く。その声に続く形で、身支度を終えたダインが姿を見せる。
使い古された革鎧を身に纏い、無骨な長剣を腰に吊すその格好は、ダインにとっての仕事着だ。
彼の仕事は、一言で言えば『村を守る』こと。領都から駐在騎士として派遣されたダインは、この村の守護を任されている。
「……おはよう、ダインさん」
力強いダインの声音とは対照的に、消え入りそうな声を発するシャウラ。
寝ぼけ眼を擦りながら、気だるげに体を起こす。
「おはよう、シャウラ。今日の体調はどうだ?」
上背がある分、天井に近いところからダインの問いかけが降ってくる。
シャウラは考える仕草を少し挟んだあと、目線をきょろきょろと彷徨わせながら、
「うーん……。とくに、変わりない、です。
あんま寝れなくて、まだちょっと眠い、だけです」
たどたどしい敬語で言葉を紡いだ。
慣れない言い回しをわざわざ選んで話す様子は、心の距離を表しているように見える。
ダインなりに距離感を縮めようと考えて、一度『口調を崩してほしい』と提案したことがある。
しかし、それから時間がいくら経過しても、言葉遣いが変化する兆しはなく、未だにシャウラの心は閉ざされたまま。
なかなか進展しない状況に思うところがあるのか、ダインは少しだけ眉尻を下げつつも、それを気取られる前にすぐさま表情を戻す。
「そうか。なら、今日は無理せずに寝ててもいいぞ」
「あ……いえ、僕は大丈夫、です。
薪割り、好きなので、今日もやりたいです」
ダインのとっさの取り繕いは意味をなさず。
シャウラは彼の方を見るどころか、むしろ意図的に視線を逸らしていた。
だが、その様子をダインが気にするそぶりはなく。今では、このやり取りが二人にとっての日常となりつつあった。
心の距離を無理に縮める必要はない。そう考えるダインは、物理的に一歩前へ歩み寄ってから、ゴツゴツとした大きな手をシャウラの頭に添える。
「なら頼んだぞ。だが、無茶はするな」
乱暴に頭を撫でながら言い終えると、ダインは返事を待たずに体を反転させて、そのまま玄関へ向かって歩き出した。
「……いってらっしゃい」
後ろからシャウラの弱々しい声が遅れて届く。その声にダインは片手を上げて反応を返す。
このやり取りもまた、二人にとっての日常の一幕となっていた。
家の扉を閉めたダインは、村の集会所へと歩みを進めていく。
今日は、月に一度の集会があり、駐在騎士の立場として参加を求められている。
道すがら、ダインの頭の中に浮かぶのは、もはや当然と言えるほど『シャウラ』のことばかりだ。
ダインは、これからの対応を決めかねていた。
会話ができるようになれば、自分から帰りたいと言い出すだろう。当初はそう予想していた。
しかし。予想に反し、シャウラはそうしたそぶりを見せず、結果として保護状態が続いている。
帰りたがらないということは、ここへ来る前に何かがあったのか。もしくは、そもそも帰れる故郷がないのか。どちらにせよ、何かしら話せない事情があるのだろうと、ダインは察していた。
とは言え、いつまでもこの状態を続けることはよくない。いずれは、シャウラの事情に踏み込まなければならない時がくる。
シャウラの閉ざされた過去を聞いた時、自分はどんな答えを出すべきなのか――。ダインは難しい選択を迫られていた。
***
「では、次。狩猟班の報告をお願いします」
「はい」
進行役を務める村長の息子に振られて、狩猟班の班長が座席から立ちあがる。
班長は手に持った報告書――という名の走り書きされたメモ用紙――を見ながら、ここ一ヵ月間の報告をはじめる。
狩猟班とは、名前のとおり食糧用の動物を狩ることを任された部隊だ。
猟具の取り扱いには慣れているが、こういった集まりでの発言は不得手なようで、ときおり言葉を詰まらせながらも役割をこなしていく。
「――ていう感じで、冬の備蓄は順調に集まってて、特に毛皮はいつもより取れてます。
ただまあ、ちょっとだけ不安なのは、ここ2、3日くらい獲物が少ない日が続いてます。たまたまだと思いますけど」
「獲物が少ないのか?」
報告の途中、上座に腰かける村長が反応を示す。
「あ、はい。ちょっとだけですが」
「そうか。……森の様子はどうだった?」
「うーん。そうですね、森の様子は別に――」
異常ないです。そう言い切ろうとした時「あっ」と何かを思い出したように、班長が声を上げた。
「どうかしたか?」
村長の老熟した声が続きを促す。
「あ、いえ……。すみません。ちょっと思い出したことがありまして。
えーと、あれは確か、10日ほど前です。班員が森の中で”ローブの男”を見たって話してました」
「ローブの男? 顔は見えたのか?」
「いえ、見えなかったそうです。ただ、遠くからでも背丈が高いのが分かったようで、男の可能性が高いと推測した感じです。
一度しか目撃報告がなかったので、すっかり忘れてました。すみません」
「なるほど。事情はわかった。だが、儂への報告がもれていたのはよくないな」
顎髭を摩りながら、村長がやんわりと指摘する。
「はい……。すみませんでした」
「まあ、誰しも忘れることはある。今後はしっかり森の警戒に努めるのと、異変があればすぐに儂か倅まで報告するように」
「わかりました」
「ああ、頼んだぞ。それから、――アナバトス殿」
村長は続けざまに、入り口近くの椅子に座るダインへ声をかける。
はい、と短く返答したダインが腰を浮かせるのと同時に、起立していた班長が静かに着席する。
「見回りを改める必要がありそうですね」
ダインは立ちあがるや否や、思い浮かんだ考えを口に出す。
「話が早くて助かります。アナバトス殿には、巡警の範囲や頻度を見直していただきたい。何かがあってからでは遅いですし、念には念を入れたいのです」
両手を机につきながら、深々と頭を下げる村長。
駐在騎士であるダインに対して敬語を使うのは、二人の身分の違いがそうさせていた。
「頭を上げてください。この村を守るのは私の役目ですので、仮に頼まれなかったとしても、自分の意志でやっていますよ」
言いながら、ダインは困り笑顔を浮かべる。
武功を立てて騎士に叙任された――いわゆる平民上がりの騎士であるダインとって、ひと回り以上も歳が離れている相手から頭を下げられるのは、何度経験しても慣れない光景だ。
「お心遣いに感謝いたします。アナバトス殿のご厚意にはいつも助けられてばかりですな」
純粋な敬意が込められた言葉が届く。
ダインは「そんなことないです」と短く答えつつも、胸の内では複雑な心境を抱いていた。
ダインから見た村長は”礼節を重んじる人格者”という印象。歳下相手でも立場に応じた対応を取り、誰に対しても配慮を欠かさない人物だ。
謙虚な姿勢を貫く村長のことを、ダインは素直に尊敬している。
しかし現実は、善意の行いが望まれない形に歪むこともあり――村の長がかしこまった態度を取れば、自ずと他の住民達もそれに倣う。
ダイン自身、気さくな振る舞いが苦手という理由もあるが……身分の差によって、着任から一年が経過した今でも、村人達と打ち解けられていなかった。
(この村で飾らずに接してくれるのは、薬屋のチヨ婆と……ある意味で、シャウラくらいか)
心の中でそう呟きながら、ダインは困り笑顔から自嘲的な笑顔に表情を変えていく。
そんなダインの変化を機敏に察知できる者は、残念ながら今この場にいない。その事実もまた、ダインの孤独感を強める要因となっていた。
(シャウラは今頃、何をしているのだろう)
***
一方その頃。ダインの心情を知りえないシャウラはというと、庭先で日課の薪割りに勤しんでいた。
どこか楽しそうな表情を浮かべながら、大きめの腰鉈を軽快に振り下ろし、トントンと小気味よい音を奏でる。
こうして腰鉈を握っている間は、少しだけ気分が穏やかになる。
シャウラ自身、わずかな気持ちの変化を自覚しつつ、慣れた手つきで薪の原木を割っていく。
今この瞬間だけは、何も考えずに無心で作業を進めることができた。
しかしこの時――。薪割りに没頭するあまり、シャウラは気づいていなかった。
ダインの家の隣に広がる森。その木々の隙間から。薄汚れたローブを身にまとう男が、シャウラの姿をじっと見つめていることに。
「――見ィつけた」
夕暮れ時が迫っていた。