第4話:森の祠
残酷な描写が含まれています。
苦手な方はご注意ください。
草木が鬱蒼と生い茂る森の中を、ただ一点だけを目指してシャウラが走っていく。
地面がどんなに悪路でも、脇目もふらずに、悲痛な面持ちで駆けていく。
シャウラはひたすら祈っていた。父が無事であることを。これから向かう『祠』でこの願いが聞き届けられることを。
祠まではそう遠くないはずなのに。普段使い慣れた山道がやけに長く感じる。
抜け道を使いたくても、祠へ向かうにはこの山道が最短だ。肝心な時に役立たない自分の知識――それはシャウラにとって、あまりに皮肉な現実だった。
シャウラの耳に、地面が爆ぜるような音が届く。
森に入った直後から聞こえてくる轟音は、後方での戦闘の激しさを物語っていた。
音以外にも、ときどき光や熱が届くこともある。
一度、灰色の光を背中から浴びた時は、驚いて足を止めてしまった。父の身に何かあったのではないか。そう思って村へ戻ろうとした。
しかし、すぐに届いた第二波の赤い熱風が、動揺するシャウラの頬を叩き、まるでサバトに「前を向いて走れ!」と叱られているような熱さを残した。
その想いを受け取ったシャウラは『戦う音が聞こえる内は父が生きている証』だと考えて、振り向かずに前だけを見て走り続けた。
戦闘音は……まだ続いている。祠までの距離は残り三分の一を切った。
あと少し――、あと少し――、あと少し――、
ぜいぜいと息が上がって、最低限の思考すらもままならない中、自分へ言い聞かせるように『あと少し』だけ全力を振り絞る。
脚が重い。肺が痛い。呼吸が追いつかない。
体はとっくに限界を迎えている。
それでも『父の戦う音』が心を鼓舞して、意志の力だけで体を動かしていく。
最後の石段を駆けのぼると――ようやく目的の祠が見えてくる。
シャウラは走る速度をさらに上げた。
体の負担なんて後で考えればいい。
肺が潰れそうなほどの痛みを感じながら、限界を超えた速度で走っていき、
「…………ぁ!」
――滑り込むような体勢で祠の下に辿りつく。
勢いが乗りすぎたあまり、祠の台座に激しくぶつかりながらも、ようやく目的の場所へ到着した。
息が乱れた状態のまま、シャウラは台座に手をかけて立ち上がる。
体を酷使した結果、全身から悲鳴が上がっていた。だが今は、休んでいる暇なんて一秒たりともない。
僕にできることはこれしかないから――
シャウラは覚悟を決めた目で腕を振り上げると、
サバトの首飾りを握りしめた手で、恐れ知らずにも祠の『扉』を力いっぱい叩き出した。
「アカボシ様! アカボシ様! 聞こえていますか!
僕の全てをささげます! ですので、どうか!
僕のおとうさんを! お助けください!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
「アカボシ様! アカボシ様!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
「お助けください! 聞こえていませんか!」
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、
「お願いです! 僕のおとうさんを!」
そう叫びながら、何百回も『扉』を叩き続けた。
しかし……祠から返事が返ってくることはなく、シャウラの泣き叫ぶ声だけが木霊する。
静寂な森の中で独擅的に響き渡るその声。
この場で聞こえる音はシャウラの声だけ。
それが、意味することは――
「おやおや、ずいぶんと楽しそうですね」
シャウラの背後から、ねっとりとした声が届く。
シャウラにとって“この世で一番聞きたくない声”といっても過言ではない。
蛇のような笑顔を浮かべるそいつは、ゆっくりと、緩慢な動作で近づいてくる。不気味な灰色の祭服を身に纏い、片手で丸い物体を持ちながら。
「…………ぁ」
振り返ったシャウラの目が『それ』を捉える。
目の前の男に対して、ではない。男が手に持っている『それ』が目についてしまった。
「ああ……これのことですか。
貴方への手土産にお持ちしました」
シャウラの視線に気がついた狂人は、蛇のような笑顔をさらに深めながら、紅く濡れた『それ』を自慢げに持ち上げる。
「…………ぇ、……おと……さん」
放心状態のシャウラが『それ』を正しく認識する。
その様子を見た狂人――ロビウスは、糸目の隙間から紫色の瞳を妖しく覗かせて、無造作に『それ』を放り投げてくる。
「感動的な親子の再会ですねェ。
私は今、非常に、非常に、非常に感激しています」
シャウラの足元に『それ』が転がる。
間近で『それ』を目に入れた瞬間、許容限界を超えたシャウラの心が粉々に砕け散っていく。
「…………ぁ、……ぅぁ、…………ぁ!」
虚空を見つめて譫言を呟きながら、自分の顔をガリガリと掻きむしるシャウラ。
その姿を観たかったとばかりに、ロビウスは大袈裟な身振り手振りで喜びを表現する。
「ああ、素晴らしい。非常に素晴らしいです。
なんと甘美な絶望でしょう。
このデザートを味わうために、わざわざそれをお持ちした甲斐がありました」
愉悦に満ちた声がシャウラの鼓膜を叩く。
耳から入る不快な音が、砕かれた心の残滓に強烈な刺激を与える。
すると、徐々に。自我を失いかけていたシャウラの心に、ひとつの感情が灯りはじめる。
それは――『憎悪』
父を殺したロビウスに対する激しい憎しみ。
感情の抜け落ちた心が、濃密な『憎悪』で急速に満たされていく。
……次第に、シャウラの思考が殺意で染められ、目の前の狂人を殺すことが唯一の願いに成り代わる。
殺したい、殺したい、殺したい、壊したい――
そんな破壊的な願望に呼応したのか。突如、手に握るサバトの首飾りが赤い光を放ち出す。
やがて光が激しく点滅しはじめると、上空に赤黒い雲が出現し、あたり一帯に強風を振り撒いていく。
「……おやおや、これは何事でしょうか?」
ロビウスの口から疑問がこぼれる。
その声を掻き消すように、今度は祠の扉が突然ガタガタと音を鳴らしはじめる。
祠の中から何かが飛び出そうとしている。
そんな気配を感じるほど、扉を揺らす音が徐々に激しさを増していく。
不気味な様子を見て、さすがのロビウスも警戒心を強めた瞬間――『きぃ』と小さな音を立てながら、祠の扉がひとりでに動き出す。
「…………。……おや、何もいない?」
ゆっくりと開かれていく祠の中には……
ロビウスの言葉の通り、何も置かれていなかった。
生き物が飛び出してきた様子もなく、いったい何が起きたのか首を傾げていると――
「おー、今回の憑坐は悪くねぇな」
祠のすぐ隣から『誰か』の声が聞こえてきた。
ロビウスが声の方へ視線を向けると、
「…………少年?」
――そこには、シャウラが立っていた。
ロビウスの言葉に疑問符が付くのはしょうがない。
声はシャウラのものだが、全体的に容姿が変わっているからだ。
肌は褐色に、髪と瞳は赤く染まり、尾骶骨から蠍のような尻尾を生やして……別人と見紛うほど変貌した姿で立っていた。
「もしかして……貴方は『蠍』なのですか?」
ロビウスは、思い当たった考えを口にする。
その声を聞いた『赤シャウラ』という表現が当てはまる少年は、不愉快そうに眉をひそめる。
「お前、超臭えな。体中から『蛇』の臭いがする。
そんな臭いを垂れ流しながら、俺に質問するとはいい度胸してんなァ」
赤シャウラは不機嫌そうに言いながら、ロビウスに向けて指をさすと――小声で「灼閃」と呟いた。
次の瞬間。赤シャウラの人差し指から赤い光線が放射されて、ロビウスの上半身を一瞬で消し飛ばす。
サバトが奥の手で使った「赫灼閃」を彷彿とさせるその技。
威力は「赫灼閃」ほどではないが、同じような技を軽い感覚で放つ赤シャウラ。
その事実に、ロビウスは上半身を再生させながら戦慄していた。
「……あ? お前『再生』持ちか?
そのわりには再生が遅せぇな。遊んでんのか?」
赤シャウラの言う通り、ロビウスの再生速度はいつもより遅くなっていた。
ロビウス自身もどうしてなのか理由は分からない。
ただ、赤シャウラの技を受けて感じたのは、サバトの攻撃よりも『熱い』ということ。
違うのは、目に見える威力ではない。赤い光線に込められた熱の温度が桁違いだった。
それが再生を遅くさせている原因なのだろう、とロビウスは推測していた。
「……やはり、貴方は『蠍』なのですね」
ようやく再生を終えたロビウスが、確信した様子で言葉を紡ぐ。
だが、それ以上語ることは許されなかった。
赤シャウラは心底どうでもよさそうに、左手の小指で耳をほじくりながら、指を三本揃えた状態の右手をロビウスへ向けると――その技の名前を口にした。
「赫灼閃」
サバトよりも数倍大きい赤色の閃光が、ロビウスの全てを飲み込み、周囲一帯の地面や草木ごと跡形もなく消し飛ばす。
肉片すら残さず焼失したロビウスは……それから再生することもなく、あっさりと、赤く染まったシャウラに殺された。
「――あぁ、すげえいい感じだ。しっくりくる。
こいつの『憎悪』は濃密で質がいい。相性がいい。
できるかもな。この憑坐でなら、今度こそ……」
赤シャウラはそこまで言って、一度言葉を区切る。
余韻に浸るように右手を握りしめると、どこか遠い場所へ視線を向けながら、ニィィィィィ――と唇を引き裂いて、
「今度こそ、世界を破壊してやる」
はっきりと、狂気を孕んだ声でそう言った。
憎悪と愉悦が混ざり合った笑顔を浮かべるその姿は、誰が見ても『悪魔』だと表現するだろう。
ロビウスの言葉は、あながち間違っていなかったのかもしれない。