第1話:蛇
残酷な描写が含まれています。
苦手な方はご注意ください。
草木が鬱蒼と生い茂る森の中を、黒髪の少年が走っていく。
地面がどんなに悪路でも、躊躇わずに、慣れた様子で駆けていく。
少年は少しだけ焦っていた。時間を忘れて遊びに熱中するあまり、村の門限を過ぎてしまいそうだった。
だから今日は、村人達が普段から使う山道ではなく、森の中を突っ切って進むことができる、最短距離の道を選んでいた。
ときどき、このとっておきの道を使っていた少年は迷わずに、さくさくと進んでいく。
手付かずの自然、木の葉や草むらを散らしながら少年は走る。そうして一直線に進んで行けば、やがて小さな池が見えてきて、その池を越えた先に少年が住む村がある。
あと少しで村に着く。門限の時間にもなんとか間に合った。今日は怒られずに済みそうだ。
そう、ほっと安堵の胸をなで下ろした少年は、走る速度を徐々に緩めると、体に付いた葉っぱを手で振り払いながら、ふと思い出す。
「ロビウスさんは無事に村へ着いたかな?」
村の入口に近づいたからか。とある旅人の顔が脳裏に浮かんだ。
今日の昼過ぎ頃、少年が森で遊んでいる最中に出会った、糸目と灰色の髪が特徴的な旅人。ロビウスと名乗る長身の青年。
彼との出会いは、少年が声をかけたのがきっかけだ。森の中で迷っている様子のロビウスに声をかけると、どうやら少年の村に届け物があるものの、途中で道が分からなくなってしまったらしい。
ああ、それなら森に詳しい僕が適任だ。
少年が得意げに村への道を教えてあげると、ロビウスは少し大袈裟なくらい喜んでいた。その時の笑顔が特に印象に残っている。
そんな出来事を思い出しながら、ようやく村へたどり着いた少年は、目の前に広がる光景を見て、突然足を止めた。――足を止めざるを得なかった。
「………………ぇ?」
少年の口の端から、微かな声がこぼれ落ちる。体の震えが声帯に代わって音を発したような、ほんの小さな無意識の声。
目を疑った。夢ではないかと疑った。
それほどまでに目の前の光景は、到底理解できるものではなかった。
少年の眼球が、平静を失って小刻みに震える。
目を背けたくても、背ける先がないほど全面に等しく広がるその光景。一瞬では処理しきれない量の情報が、少年の視神経を通って脳を揺らす。
少年の視線の先には――倒壊している家屋、壁や地面にこびり付く夥しい量の血、腕のような肉塊、辛うじて肉片だと分かる物体、血まみれで倒れ伏す村人、首から上がない死体、体の一部がない死体、瓦礫で潰された死体、老人の死体、子供の死体、顔馴染みのある数多の死体、そして、この惨状を作ったであろう灰色のローブを身に纏う謎の集団――村中で虐殺が行われている光景が広がっていた。
少年の耳に音が届く――誰かの悲鳴が鼓膜を揺らす。
少年の鼻に風が届く――濃密な血の臭いが鼻腔を満たす。
視覚、聴覚、嗅覚、それぞれの感覚器官が、目の前の惨状をこれでもかと知覚させる。
惨たらしい現実を認識した途端、少年は強烈な吐き気に襲われて、胃の内容物を全てぶちまけた。
なんで、どうして、なにが、なんで――頭の中を疑問符だけが空回る。
恐れ、怯え、悲しみ、苦しみ、いくつもの感情が心をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
少年は見てしまった。目に焼き付いてしまった。知人の亡骸がそこら中に転がっている光景を。住み慣れた平穏な村がぐちゃぐちゃに壊されている光景を。
せめて家族だけは生きていて欲しい。
そう願いながら、虚な視線を彷徨わせると、地獄絵図の中心に、まだ生きている顔見知りを見つけることができた。
彼は、生きていた。
その容姿を形容するなら、糸目と灰色の髪が特徴的な青年。
少年が森で出会った『ロビウス』と名乗る旅人が村の中央付近で立っていた。……灰色の豪華なローブを身に纏い、血濡れた剣を右手に持ちながら。
なぜ、と少年が問いかけるよりも先に。
少年の気配を感じて、ロビウスがゆったりとした動作でこちらに振り向く。
「おやおや。これはこれは。
貴方は先ほどの少年ではありませんか。
ああ、なんという巡り合わせでしょう。このタイミングで貴方とお会いすることができるなんて。きっとこれは蛇の導きに違いありません。
貴方には全てが終わった後、改めて感謝を伝えに行く予定でしたが……この巡り合わせに私は今、非常に感激しています」
少年との再会を、心から嬉しそうに語るロビウス。
森の中で話した時と同じように、大袈裟な身振り手振りで喜びを表現する。
今この場では、一方的な殺戮が行われているのに。
彼の周りには、数多の死体が積み重なっているのに。
ロビウスは何ひとつ気にする様子もないまま、ただただ少年との再会を喜んでいた。
異常事態の渦中なのに、あまりに平常すぎるその姿は、むしろ際立った狂気を感じさせる。
ロビウスの異常さに気押されながらも、少年は言葉の中にふと違和感を覚えて、反射的に「感謝?」と考えを声に出す。
それを聞いて、目の前の狂人が笑った。
「ええ、そうです。そうですとも。
貴方の献身的な道案内のおかげで、私達はすんなりとこの地へたどり着けました。
そして、こうして予定よりも早く、奴らに邪魔されることもなく、最も目障りな悪魔の末裔を抹殺することができます。
貴方は、とても、とても、とても素晴らしき行いをされました。
本来であれば、私にできる最上の返礼をしたいところですが……。ああ、悲しいことに、どうしてなのか。愚かにも、貴方はそこに転がる肉塊と同じ“忌まわしき悪魔の末裔”だという悲劇!
その不幸な事実に……私は、非常に、非常に、非常に、非常に、非常にィ――絶望しながら、非情にも貴方のことを殺さなくてはなりません」
ロビウスは、さらに深く笑った。
糸目の隙間から紫色の瞳をうっすら覗かせて。
唇を引き裂くように笑うその顔を、何かに例えるとするならば、それは――『蛇』という言葉が相応しいだろう。
少年は理解した。自分がこの蛇を招いてしまったことを。自分の行動が発端となり、目の前の惨状が繰り広げられていることを。
決して、悪気があったわけじゃない。ロビウスに声をかけたのは、あくまでも善意での行動だった。
それがまさか、灰吹きから蛇が出てくるなんて。誰だって想像できないだろう。
だが――無情な現実は、言い訳を許してくれるほど優しくできていない。
「……僕のせいだ」
少年の瞳から光が消える。
自分の浅はかな行動の結果、大切な家族や友人の命が奪われてしまった。
到底、許されることではない。自分自身が自分を許すことができない。
少しでもこの罪を償えるのならば――いっそこのまま死んでしまいたい。
抵抗する気力を失って、だらりと全身の力が抜けていく。
「ああ……! 素晴らしい。
非常に、非常に、非常に素晴らしい表情です。
私達をこの地へ案内した献身さといい、貴方は自らが背負う罪をよく理解されている。
他の愚か者どもとは違い、逃げもせず、抗いもせず、泣きわめくこともせず、生きている価値がないことを認めて、素直に命を差し出すことを決められた。
その行いだけで、貴方の先祖が犯した大罪が消えることはありませんが、私は、私にとっては、非常に心地よく罪を裁くことができます」
そう言いながら、ロビウスが右手の剣をゆったりと振り上げる。
狙いは少年の首。力なく項垂れるその姿勢は、自ら首を差し出しているのと同然。
ロビウスは”その瞬間“を味わうように、緩慢な動作で剣を振り下ろしていくと――
「シャウラ!」と、叫ぶ誰かの声が聞こえて、
――少年の首に当たる寸前で、割り込んできた腰鉈がロビウスの剣を弾き返す。
衝撃で砂煙が立ちのぼる。
不明瞭な視界の中、大きく後退したロビウスと少年との間に、立ちふさがる影がひとつ。
一陣の風が吹き抜けて、砂煙が晴れると……。
そこには――黒髪の大男が、長い腰鉈を構えながら立っていた。
ロビウスよりも大きい男の背中には、三つ編みで纏められた一本の髪が伸び、風になびいて尻尾のように揺れ動く。
その特徴的な後ろ姿を見て、少年が反応を示す。
「……おとうさん?」
疑うような口調で咄嗟に言葉が出た。
目の前の大男は、前を向いたまま短く答える。
「シャウラ、遅くなってすまない」
少年――シャウラの父が生きていた。
たった一言だけの会話。それだけで。父の声を聞いただけで、シャウラの心が温かい感情で満たされていく。
それはシャウラの父も同じで、今すぐにでも息子を抱きしめてやりたかった。
しかし、戦闘中によそ見をする余裕はない。
腰鉈を強く握りしめて、ロビウスの挙動を睨むように注視する。
「…………して、……です」
張り詰める緊張感の中、ロビウスが何かを喋った。
ぼそぼそと譫言のように口を動かすせいで、上手く聞き取ることができない。
不穏な気配が漂うその様子に、シャウラ達が警戒心を強めていると――突然、ロビウスの眼が勢いよく見開かれる。
「……なんていうことを! これだから蛮族は!
神聖なる断罪の邪魔をするなんて、貴方はよほど頭がイカれているのでしょう!
さすがに寛大な私でも、これは許せません。許されません。絶対に許してはなりません!
私は今……非常に……非常に……憤っています!」
怒りに満ちた紫色の瞳がシャウラ達を射抜く。
シャウラの父――サバトは、ロビウスの視線から息子を隠すように腰鉈を構え直す。
そんな父の背中はいつもより広く感じた。