私は許せない~聖女の愛が憎しみに変わる時~
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妊娠・出産に関するシーンがあります。
「元聖女だから結婚したのに。これほど役立たずとは思わなかったよ」
紛れもない、国王である夫の声に思わず扉の前で足を止めた。
「しかし、陛下。エレン様は力を失ったといえど魔王を倒した元聖女様です。神殿の後ろ盾もあり、国民からの人気も絶大で慈善事業には力を入れていらっしゃって……あれほど素晴らしい女性はなかなかいません」
「だが、結婚して三年経っても子供も生めないじゃないか。おかげで周りがうるさくて二人か三人新しく妃を迎えないといけない。金がかかってしょうがない上に私まで種なしだと言われる」
「そうおっしゃる割に、熱心にご令嬢方の書類を見ていらっしゃいますね」
「派閥の関係で複数の妃を迎えるだろう? 吟味するのは当たり前だ」
エレンはあまりのことに口に手を当てて、後退った。
「ピンクの髪だけは願い下げだな。頭の中身が足りない女だったら困る」
「なぜですか。エレン様は美しい方です」
「なんだ、お前は聖女信者だったのか。あのまま石女だったらお前のところに新たに嫁がせるか」
「私には婚約者がいます故」
聞きたくないせいか、夫と側近の言葉がやけに遠くに聞こえた。バレてはいけないとそのまま踵を返す。
エレンがここに来たことは内緒にしなければいけない。さっきの会話は聞かなかった。
扉の前にいた護衛騎士を誤魔化すために、戻ったばかりの癒しの力を使う。あれを初めて受けると、ぼうっとして前後の記憶がやや曖昧になるのだ。
魔王戦の時に使い切って失ったとばかり思っていた癒しの力。久しぶりに意識的に使ったので自信がなかったが、ぼんやりした騎士たちの様子を見るに成功したようだ。
「やっぱり、さっきあなたが言ってくれたように夜に陛下と話すわ。ごめんなさいね」
護衛騎士たちにあたかも今来たように装って背を向けた。危なかった。まだ心臓がバクバクしているけれどちゃんと隠せたかしら。
聖女ではなくなっても、国王である夫には愛されていると勝手に思っていた。
数年前、脅威である魔王を四人で倒した。勇者と戦士と魔法使いと、そして聖女だったエレンで。簡単そうに口にしているが、それほど簡単ではなかった。皆どこかしらに大きな怪我をしたし、エレンは力を使いすぎて癒しの力を失った。そして、勇者は帰らぬ人となった。まさか魔王が最後の力を使って魔法を放ち、勇者を崖から突き落とすなんて。
暗い崖を三人で眺めたあの無力感。
戦士ベネディクトは、自分も崖に落ちそうになりながらも一度は掴んだ勇者の手を振りほどかれてしまって激しく悔いた。
魔法使いドロテアはほとんどの魔力を使い切っていたが、魔力枯渇で吐きながら浮遊魔法をなんとか勇者に当てようとしていた。
エレンも必死で見えない中、どこかに落ちたであろう勇者に向けて癒しの力を放った。力を使いすぎて気絶して目が覚めた時には、彼は死んだことになっていた。
崖の下にはまだ魔物が多く、捜索隊は勇者の遺体を見つけることはできなかったのだ。
エレンはずっと勇者トリスタンのことが好きだった。魔王を倒す道中からずっと。
彼の死後は聖女の力も失ったため、神殿で死ぬまで祈りの日々を送るつもりだった。その祈りの日々に割って入ったのが、当時第一王子であったアレックスだ。
「国のため、魔王の被害からの復興のために私の妻になってくれないか」
最初はそんな実用的な求婚だった。もちろん断ったが、アレックスは毎日どんなに悪天候でも忙しくても神殿に通ってきてエレンに求婚したのだ。最初は復興のため、国のため、国民の希望になってくれという言葉だったのに、段々アレックスはエレンに愛の言葉を口にするようになった。
それに騙されてしまった。聖女の力を失っても求められていると思ってしまった。
そして結婚して、彼は国王になってエレンは王妃となって三年。
今日、彼がエレンのことを役立たずでバカだと思っていたことが判明した。
「バカみたい。跡継ぎのために新しく妃を迎えるのは仕方がないと思っていたけど。あんなに楽しそうにご令嬢を選んでいるなんて」
エレンは仕事中に書類で指を切った。その時に仄かな温かさを感じて傷口を見ていると、切り傷が自動的にふさがった。使い切ってなくなったと思っていた癒しの力が蘇ったのだ。
この三年、エレンに子供ができなくていろいろ言われていることは知っていた。でも癒しの力が戻ったならばエレンにも存在意義がはっきりとある。嬉しくて足取り軽く夫のところに報告に行ったら、あの会話を耳にしてしまった。
離婚するべきだろうか。
でも、王妃だから寄付を集めてできる慈善事業はたくさんある。魔王軍や魔物に親を殺されて孤児となった子供たちへの支援だって、王妃でなければあの規模のものはなかなかできない。
今、エレンがやめたら誰が引き継いでくれるのだろう。新しい妃のうちの誰かが王妃になって確実に引き継いでくれるの? あの子供たちが路頭に迷うことはない? エレンが神殿に引っ込んであの規模のものができる? そもそも神殿は離婚したエレンを迎え入れてくれるだろうか。王族とのつながりを特に欲していた神殿が離婚したエレンを?
「ごめんね、エレン。大臣たちがどうしても跡継ぎをとうるさくて。新しい妃たちを迎えることになってしまった」
夫である国王に騙され続けていたのは、彼のこの完璧な王子様のような態度のせいもある。
「でも、私にはエレンだけだ。神殿で祈る君を見た時からずっと」
エレンに対する愛おし気な態度を社交界でも二人きりの時でもずっと見せていたから、うっかり信じてしまったのだ。
今もこの態度だもの。あの会話は幻だったのだろうか。
「そういえば、今日は執務室に来てくれたのかい?」
「慈善事業の件を相談しようと思って。でも、忙しいだろうと思ってやめたの」
「あれはエレンに任せたものだから、君がすべて好きにやってくれたらいいんだよ」
嘘の言葉がするする口から出た。癒しの力が戻ったことを言う気にはなれなかったし、夫の返事を聞いた瞬間「ピンクの髪だけは願い下げ」と蔑みの声が蘇る。
「そうね、分かったわ」
いつものように夫を無邪気に信じるエレンを演じる。夫は満足そうに頷いたが、エレンの心はなぜか軋んだ。その音がなぜしたのか分からなかった。
夫にバカにされていたと分かっても、エレンは次なる行動を躊躇していた。
毎日神殿に求婚のために通ってくれたことと、この三年間を先ほどの一瞬で疑ってもいいのか分からなかったのだ。
知らなかった。魔王を倒しても自分がこんなに弱かっただなんて。もちろん、旅に出た当初エレンは回復以外ではパーティーのお荷物だった。魔物を前にして恐怖で動けない。それで勇者トリスタンに毎回助けられていた。
ちょっとずつでも強くなったと思っていた。でも、それは間違いだった。彼が、トリスタンがいたからそう信じていられただけだったのだ。
「トリスタン……あなたに会いたい」
どんなに月を見上げて泣いても、もう彼は会いに来てもくれないし助けてくれないのだ。彼がいてくれれば、エレンはそれで良かったのに。
夜に見張りをしながら自分の無力さに涙を流していたら、彼は起きてきて面白い話をしてくれたっけ。魔王がまだ健在で魔物がたくさんいても、あの頃が一番楽しかった。
新しい妃たちが入ってくるのは思いのほか早かった。
ずっと夫のことを慕っていて婚約者さえいなかった公爵家の令嬢であるマリアンヌ・ベケット、国内有数の資産家である伯爵家の令嬢サシャ・ブラックウェル。この二人がまずは入って来た。他は必要に応じて新たに迎え入れるそうだ。
マリアンヌはややきつ目の顔立ちに見事に巻いた金髪、そして高位貴族のわりにとても分かりやすい人だ。
「あなたが元聖女様でしょうか」
言葉遣いだけは公爵令嬢らしく丁寧だが、口元は歪んで態度はあからさまにエレンを見下している。エレンが聖女になる前は男爵令嬢だったせいもあるだろう。
「魔王を倒してくださったことは感謝しています。元聖女様の働きはそれで充分ですもの。王家の跡継ぎは私が生むのでご心配なさらず。生めないなら孤児たちのお世話でもなさっていてくださいな」
「何を言っているんですか! 聖女様の血を引いたお子様が良いに決まっています!」
マリアンヌは甘やかされて傲慢でワガママなだけ。面倒なのはサシャだ。可愛らしいふわふわした外見のサシャは、怪我をしていた兄をエレンに癒してもらったことがあるせいか、激しい聖女崇拝の姿勢を崩さない。
「聖女様にだってお子様はできますから!」
マリアンヌ相手にサシャがムキになって、顔を合わせるとこの調子である。
エレンは子供ができないことをこの三年間なじられすぎて、敏感を通り越して疲弊していた。サシャに生めるのが当然のように口にされて心がまた騒いだ。
しかし、何を口にしたところでエレンはこの三年妊娠しなかったのだ。何を言っても無駄である。だからエレンはいつものように曖昧に笑う。そうすると「聖女様らしい」と言われるから。
妃たちの管理は王妃の仕事だ。ただ、あの二人と顔を合わせると心が疲弊していく。
夫はずっと自分に恋をしていたマリアンヌのところに入り浸っているようで、エレンのところには来ない。たまに花が届けられるだけだ。それがマリアンヌをさらに増長させる。増長してエレンを見下し嫌味を言うマリアンヌに怒るサシャの構図が出来上がっていた。
微笑みながら耐えて、そうして数カ月。
マリアンヌの懐妊が知らされた。サシャはものすごく怒っていて「違う男の種に違いない」だの「聖女様を差し置いて」なんて言っていたが、周囲はこれまでにないほどお祝いムードだ。
まるで魔王を倒した後の王都みたい。
あの時、エレンたち三人だけは勇者トリスタンを失って葬儀のような雰囲気だった。それでも王都を回ってパレードをさせられた。あの時世界でエレンたち三人だけは民衆のように祝う気分ではなかった。
魔王を倒していない人たちが一番喜んでいた。エレンも正直、そちら側にいたかった。生活は苦しかったかもしれないし、恐怖を感じて日々生きていたかもしれない。でも、誰かが魔王を倒してそれほど大切なものを失うことなく平和な世界に熱狂できるのなら、そちら側の方が良かった。
妃たち、とくにマリアンヌの存在のせいで確実にエレンの心は疲れていっていた。自分の存在意義のなさを突き付けられている気分になる。
「誰?」
マリアンヌの懐妊が王宮中を湧かせたその夜、何かの気配を感じてエレンは起き上がった。窓は閉めて眠ったはずなのにカーテンが揺れている。誰かが窓辺に腰掛けていた。大声を上げようとしたが、その前に侵入者が口を開いた。
「こんばんは、聖女様」
低い女の声だった。侵入してきたにしては何の憎しみも滲んでいない、穏やかな声。むしろ労わるような声音だ。
「あなたは、誰?」
「聖女様を殺せって依頼された暗殺者ってとこかな。すごいね、聖女様だから? 扉の前の護衛、やる気なさすぎ」
暗殺者なのにフードを脱いで顔を晒しながら、その女はエレンのベッドに近付いて来た。殺意は感じない。
「おそらく平和ボケよ、もう魔物もめったに出ないし」
「王都にはね。まだ魔物がちょいちょい出る地域もある。まぁ、聖女様はアタシの恩人だから殺さないけど」
「恩人? 訂正するけれど、私はもう聖女じゃないわ」
彼女はエレンのベッドにどっかり腰を下ろす。エレンは変な気分だった。恐らく、命の危機だろう。この距離でブスッといかれたら終わりだ。いくらエレンでも即死させられたら力を使う暇もない。誰にも言っていないが、癒しの力はあれからどんどん戻ってきていた。
「そんなん関係ないよ。あんたは、いやあなたはアタシにとって永遠に聖女様だ」
エレンは顔を覚えるのは得意な方だが、月に照らされた彼女の顔に見覚えはない。
「ごめんなさい、覚えていないの」
「あぁ、癒してもらったのはアタシじゃなくてアタシの妹分」
「あなたに似てる?」
「いんや、血は繋がってないから。妹分ってだけ。赤毛の子でね」
「赤毛の女の子といえば、クルル村とタルゴ村に一人ずつと……」
「すごいね、あんた。いやあなたは覚えてるんだ」
「そういうのは得意なの」
「やっぱり、あなたは聖女様だ」
彼女はふっと微笑んでからすぐに表情を引き締める。
「見つかるかもしれないから手短に話すね。アタシは聖女様の殺害を依頼された。依頼は何人か挟んでるけど多分黒幕はベケット公爵家だね。娘が妊娠したからあなたを殺して王妃の座を狙ってんだよ」
エレンはひゅっと息をのんだ。
しかし、すぐに納得した。マリアンヌがあれほど尊大な態度なのだ。エレンが聖女ならまだしも、力を失った元聖女で実家は男爵家。親も手に入りそうな王妃の座を狙いたくなるだろう。
「あなたは国民から絶大な人気があるからね。失脚させようにも難しい。王妃の座を狙うなら殺すしかないみたい」
「どうして……あなたはそんなことを教えてくれるの」
「今日はこれよりもっと重要なことをあなたに伝えに来た。だからあなたのことを殺さないのにこの依頼を受けた。これはアタシなりの恩返しだ」
彼女は声を潜めて話し出した。それはエレンが思ってもみなかった内容だった。
「現国王が勇者の暗殺を命じたんだ。勇者が崖から落ちて死んだのは魔王の最後の攻撃のせいじゃない。あれは暗殺者の仕業だ」
予想外の内容にエレンは一瞬何を言われたか分からなかった。
「夫が?」
「そう。勇者と王女を結婚させて勇者を王配にするって可能性もあったから。現国王は王位を望むあまりその可能性を潰したかったんだと思う。それで魔王との交戦後に疲弊した勇者を狙ったってわけ」
抵抗感で吐き気がしてきて、エレンは口元を押さえた。
暗殺者と名乗った彼女はそんなエレンに水を差し出す。
「勇者トリスタン様の祖母は移民だろ? 移民を先祖に持つ勇者は貴族たちの間では歓迎されなくってね。しかも平民だ。平民出で移民の血を引いた勇者が王配になって自分たちの上になるのは許せないのさ」
「たった、それだけの理由で?」
そんなくだらない理由でトリスタンは殺されたの? 夫が王になりたかったから? 貴族たちがトリスタンを嫌ったから彼を殺すことを正当化したの?
「お貴族様にとって平民の命なんざ、ハエに等しいんだよ。聖女様」
いつのまにか流れていたエレンの涙を乱雑に拭い、彼女は立ち上がった。
「信じるかどうかはあなた次第だが。アタシにも勇者暗殺の依頼が来たから知ってる。もちろん断ったけどさ」
「これは、ドロテアやベネディクトにも伝えたの?」
頭がぐちゃぐちゃで思わず仲間だった二人の名前を口にした。
今二人がどこにいるかは分からない。文通は時折していたものの、お互い忙しくて途絶えていた。
「いいや。ただ、あなたが知らないならバカにされていると思った。一緒に旅をした勇者の仇と結婚して、子供が生めないからと他の妃を入れられて。アタシから見たらこれらは全部聖女様に対する冒涜だ。単なる行き過ぎたアタシの正義感なのかもしれないけどさ、どうしても聖女様に伝えなきゃいけないと思ったんだ」
彼女は来た時と同じようにさっさと出て行った。エレンに混乱だけを残して。
「ふふっ。あははっ」
しばらくしてエレンは混乱しすぎて笑い始めた。涙も一緒に出て、エレンは笑いながら泣いていた。
聖女になったら、全部救えるんだと傲慢にも考えていた時期がある。
確かにたくさんの死にかけた人をエレンは救った。でも、最も一緒にいたかった人は救えなかった。癒しの力があってもなんて無力なのか。トリスタン以外からの称賛や感謝なんて無意味だった。
ねぇ、トリスタン。あなたに会いたい。
今からでも死んだらあなたに会えるだろうか。
翌日は王妃として管轄する孤児院への慰問の日だった。泣きはらした目に戻った癒しの力を使って馬鹿みたいだと乾いた笑いが漏れる。
どうやら暗殺者の彼女は鳥の羽根を大量に城の庭に撒いて去ったようだ。朝から騎士たちが騒がしく、不審者警戒のために護衛体勢が強化された。ベケット公爵家は新しく暗殺者を送るのを躊躇うだろう。
孤児院へ向かう馬車からぼんやり外を見ていると、広場に建てられた勇者トリスタンの像が見えた。
心臓がおかしな音を立てる。
像を建てることを最初に提案したのは夫だった。魔王を倒してくれた勇者のシンボルを建てようと言って。
一体、どんな心の内であの像を建てようなんて言ったのだろう。死んだトリスタンへの嘲笑? それとも自分が王になれたからその余裕でも見せつけたかったの?
昨日、暗殺者から信じられないことを聞いたせいかまた涙が落ちそうになる。
あれは本当なんだろうか。でも、夫は陰でエレンのことも馬鹿にしていた。勇者が死んで、聖女を娶ったから彼の即位は確実になったのではないのか。
窓に張り付いて、過ぎ行くトリスタンの像を眺める。心臓は嫌な音を立て続けている。
どうして今更癒しの力が戻ってきたの。
聖女は世界の危機に神託で決まる。もしかしてこれは神のご意思なのかしら。
そう考えていたら、心臓の音が落ち着いてきた。
ねぇ、このまま馬鹿にされていていいの?
あの夫は、エレンを利用するために求婚してさらにトリスタンまで殺したかもしれないのに。勇者は魔王を倒したらそれ以上生きていることも許されないの?
トリスタンさえ生きていれば、エレンはその他のことはどうでも良かったのに。
本当に王妃になって復興を手伝いたかったの?
トリスタンが親を殺された子供たちが可哀想だって言っていたから、そこから影響を受けたんじゃないの?
全部、トリスタンのために頑張ってたんじゃないの?
「せーじょさま、げんきない?」
「ううん、そんなことないわよ」
孤児院の子供たちに心配されて慌てて笑顔を作る。
この孤児院を新しく作ったのも何もかも、トリスタンがこんな世界を望んでいたからだ。エレンは庭で子供たちに絵本を読み終わって、そっと空を見上げる。
「あ、虹!」
「せぇじょさま、にじ!」
子供たちが虹を見つけて騒ぎ始める。
そう、こんな平和な世界をトリスタンは望んだのだ。子供たちが飢えず、魔物や魔王軍に怯えず、未来を悲観せずに平和に暮らせる世界を。
ごめんなさい、トリスタン。一瞬でも死んだらあなたに会えるかもしれないなんて思ってしまって。
私が死んだら、あなたの望む世界は実現できないかもしれない。
だって、貴族たちはお金を出してふんぞり返っているだけだから。神殿の聖職者たちも権力争いに忙しいだけ。エレンがやるから別にやらなくていいとでも思っているのかもしれない。
魔王や魔物は怖かったけど、平和になったら分かる。大人たちはただひたすらに醜い。魔物よりも醜い。
像はあるけど、私が死んだら本当のあなたを誰かが思い出すこともないかもしれない。
いつもはチャラチャラして軽口を叩いていても、誰よりも真剣に未来を考えていた人。魔物から庇ってくれる大きな背中も。落ち込んでいたら冗談を言って笑わせてくれる明るさも。私は全部覚えている。
ねぇ、トリスタン。
私が今死んだら、誰があなたの復讐をするというのだろう。もし、あなたが殺されたのならば。
あなたみたいに素晴らしい人が殺されて死んで、夫やマリアンヌみたいな醜い人が生きているのは正しいの? だからこそ今、私の癒しの力は戻ったんじゃないの?
私は無力だ。聖女の肩書も重かった。でも、あなたさえいれば生きていて良かったと思えた。トリスタン、あなたが作った平和の上にのうのうと居座る醜い人を私は許さない。
そう、許せない。
私はずっとこの思いを隠してきた。元聖女だから、こんなどす黒い思いは持ってはいけないと思ったの。
大きくかかる虹を見ながら、自分が肯定されたように感じた。
そこからエレンは行動を開始した。
妊娠したマリアンヌのために良い物を取り寄せ、気が立っているだろう彼女のところに話し相手になりに行く。
国王である夫に手をかけるのは難しい。夫はエレンを娶ったおかげか人気がある。今の段階で、彼の行いを証拠を集めて明らかにしても信じてもらえるかどうか分からない。
エレンも人気はあるが、王妃といってもそこまで権力を持っているわけではない。貴族たちに平気でバカにされているのだ。エレンにあるのは聖女だった実績と国民からの人気だけ。これを最大限利用しよう。
「聖女様はなんとお優しい」
マリアンヌに甲斐甲斐しく世話を焼いて気遣っていると、最初は「生めない王妃なのに」「嫉妬だろうか」と嘲笑されていたが続けていればそれは称賛に変わった。悪阻の酷いマリアンヌにも寄り添ったし、イライラしてマリアンヌに物を投げられても使用人たちを気遣ってフォローしたからだ。
そして予期もしない形で機会はやってきた。マリアンヌが産気づいたがお産は長引き、出血も酷かった。出産の際に母子ともに亡くなることは多いのだ。予想していたわけではないが、エレンはこの機会を逃さなかった。
「ねぇ、助けて欲しい?」
出産に際してエレンもマリアンヌの側にいた。そして、祈りを捧げるフリをしながらマリアンヌの耳元で囁く。ここまで近づけたのは日頃の行いのおかげだ。
マリアンヌは朦朧としながらもしっかり頷く。
「本当に?」
部屋の外でサシャが周囲の人々にも祈りを捧げるように言っているので騒がしい。だから、エレンの言葉が後ろに聞かれることはない。サシャは神経を逆なでしてくるものの、基本的に聖女の味方だ。
「た……すけて」
「じゃあ、私に二度と盾突かないようにね」
エレンは右手をさっと掲げた。手から淡い光が放たれる。
「聖女様!」
光がマリアンヌの体に吸い込まれていくのを確認して、エレンは床にわざと倒れ込んだ。知らない間にやや戻っていた力を使い切ったという体だ。
そこからが苦行だった。サシャが叫びながら縋りついてきても、神官たちが泣きそうな声を出してもエレンは意識を失ったフリをしなければいけなかったのだ。
そのままどこかへ運ばれ、いつの間にか眠ってしまったらしい。
目覚めると、侍女が安心したように医者を呼んだ。
神官もいて、聖女の力が戻ったのかと聞かれたがまた使い尽くしたと答えておく。魔道具のようなもので測定されることがないから良かった。エレンが聖女になった時は神託が下りたのだが、神託を下ろすのも大変らしく世界の危機でもないのにいちいち下ろさないようだ。
次の日にはマリアンヌの実家から豪華な礼の品が届いていた。
「さて、マリアンヌのことだから盾突くなと言っても半年も持たないでしょうね」
エレンは近い将来を想像して笑った。
最後の力を振り絞って妃と王子を癒した聖女に酷い態度を取れば、さすがに周囲も黙っていない。マリアンヌは自業自得でここを去るのだ。
しばらく仕事もせずにベッドの住人として過ごして、五日ほどしてやっと起き上がる。
マリアンヌは最初のうちは大人しくしていた。
エレンに会っても縮こまるようにして挨拶するだけ。でもエレンがいつも通りに接し、さらに周囲は「待望の跡継ぎを生んだ」だの「あなたは国母だ」だの持ち上げるのですぐに鼻が高くなったようだ。
「マリアンヌ様は母子ともに救っていただいたのに、聖女様へのあの態度はあんまりです!」
「マリアンヌ様は子育てでお疲れなのよ」
「どこがですかぁ、乳母に任せっきりで遊んでばっかりですよ」
「そんなこと言っては失礼よ、サシャ。見えない部分がたくさんあるのだから」
「聖女様はお優しすぎます!」
そんなマリアンヌを見て、サシャが怒っていろいろな場所で騒ぐ。彼女は神経を逆なでする言動が多々あるものの、可愛い人だ。こんなにエレンのために怒ってくれる人はいない。だから、排除せずに利用してしまうのだ。
エレンは悲しそうに笑ってマリアンヌを擁護する。マリアンヌの派閥の人間たちにはあまり意味がないが、それ以外の人々の共感と同意は得られた。
「マリアンヌ様は跡継ぎを生んだが、助けてもらった聖女様にあの態度とは酷すぎないか」
「第一王子があのように育ってしまったらどうするのだ。大丈夫なのか」
「そもそも恩がある相手にあのような態度なら、恩などない相手は羽虫扱いではないか。爵位でしか人を判断していないのか?」
そんな声が貴族たちの間で上がり始め、マリアンヌの周囲からは人が減り始めた。
焦るマリアンヌにサシャをけしかけて、さらに不安を煽る。
サシャに神経を逆なでされたマリアンヌはエレンの侍女を買収して、エレンに毒を盛ろうとしてきた。親に相談しなかったのか、もう誰も協力してくれないのか。杜撰だった。
買収されたフリをしてくれた侍女は、すぐさま泣きながら渡された毒薬を出してエレンに報告した。ちょうど慈善事業について大臣と打ち合わせをしていたところだったので、すぐに大問題になり夫である国王でも隠せない事態となった。
密告してくれたおかげで未遂であるし、跡継ぎを生んだのだからとエレンは庇ったが、多くの貴族たちが処罰を望んでマリアンヌは罪を犯した王族が閉じ込められる塔に幽閉された。
次に問題になったのがマリアンヌの子供だ。今のところ唯一の王子である。
「子供に罪はないのですから、私が面倒を見ましょう」
エレンは王子の養育を申し出て、また評判を上げた。
エレンとしては今回の件で毒を盛られても良かった。飲んでしまっても癒しの力で治せるから。今回は捨て身の作戦は取らなくて良かったようだ。
「君は聖女の力を失っても、生き方が聖女だったのだな」
夫は珍しくエレンのところにやって来て、一歳になった王子を眺める。
そんな夫に吐き気がしたが、サシャがしていた話を思い出して吐き気は収まった。
「母親がいないのが分かるようで今日はなかなか寝付かないのです。抱っこしますか?」
「……分かった」
夫はマリアンヌの子供を危なっかしく抱いている。その目にあるのは愛情ではなく、疑念だ。その空気が子供にも伝わるのだろう。また王子は激しく泣き始めたので、エレンは子育て経験のある使用人に王子を任せた。
「乳母も早く選ばないといけません」
「あぁ」
「孤児院に連れて行って他の子供たちと交流させるのもいいですね」
夫は上の空だ。これはマリアンヌの行動がショックだったのもあるだろうが、やはり子供が夫に似ていないというウワサが出回っているからだろう。エレンもサシャも妊娠せずにここまできた。子供を生んだのはマリアンヌだけ。
エレンはサシャが「聖女様より先に妊娠したくない」と避妊薬を飲んでいるのを知っているが、子供が夫に似ていないと言うウワサの出どころは知らない。サシャが面白そうに話してくれたのだ。
ベケット公爵家をこの機会に失墜させたいどこかの貴族が流したのだろう。夫もウワサを信じかけているのが態度から分かって、エレンは少し可笑しかった。人に石女と言っているから自分に返って来たのよ。
エレンはちゃんと覚悟している。この復讐が自分に返ってきてもいいと。
だってエレンの弱さも辛さも痛みも涙も、もう拭ってくれる人はいないのだから。エレンにあるのは許せないという憎しみだけだ。
その日、エレンは神殿で人々の話を聞いていた。
もう聖女ではないのでやらなくてもいいのだが、エレンはこの時間が好きだった。トリスタンを失った後からこの時間は取っていたから。
終わりかと思ったところで、最後の一人が近付いて来た。
薄汚れたフードを被っていて顔は見えないが、傷跡をそうやって隠している人もいるのでおかしくはない。
「どうされましたか?」
「エレン」
近付いてくるまで誰か分からなかった。
「ベネディクトじゃない。どうしたの?」
大きな声を上げそうになったが、彼が静かにするように合図をしてきたので小声になる。
「神官たちには協力してもらったが、一応小声で」
「あ、うん」
仲間だった戦士ベネディクトだ。神官が空いている部屋に誘導してくれたので、二人で話すことになる。
「どこにいたの? 実家に戻ったの?」
「いや、この国にはいなかった」
戦士ベネディクトは魔王戦で片目を失っていた。フードを脱いで彼は眼帯姿を晒す。今のエレンなら治せるが、その前に彼は何をしに来たのだろうか。
「懺悔を聞いてくれないか」
「私は聖女でも聖職者でもないよ?」
ベネディクトに対しては口調が気安くなってしまう。しかし、彼は唇をかみしめて俯き様子がおかしい。
「俺はもうこの罪悪感に耐えきれないんだ」
「どうしたの?」
エレンは彼の腕に手を伸ばしかけたが、ベネディクトがひれ伏したのが先だった。
「俺が、トリスタンを殺したんだ」
「え?」
「正確に言えば脅されていた。実家の伯爵家が税を誤魔化していて……第一王子、今は国王なんだが……脅されて……仕方なく……」
ベネディクトはそこまで口にして、耐え切れなかったように慟哭し始めた。エレンは衝撃的な内容ですぐに理解できず、目を瞬く。なんとか頭が理解を形にしようとしている。
「ベネディクト、泣いていないでちゃんと話して」
自分で思ったよりも明るい声が出た。不自然な明るい声音にベネディクトも何かを感じたらしい。少し時間はかかったが、泣き止んだ。
「第一王子が勇者を暗殺したがってたのは知ってた。でも、俺にもダメ押しで依頼、いや脅迫があったんだ。暗殺が失敗したら、俺がトリスタンを殺せって」
エレンはベネディクトではなく、ぼんやりと神殿の壁を見つめて彼の言葉を反芻した。どこかであの女性の暗殺者の話は嘘だったかもしれない、なんて考えていた。しかし、本当だった。しかもベネディクトまで脅していたなんて。夫は……なんて醜いんだろう。そしてそれに気づきもしなかったエレンも。
「そんなことできるわけなかった。トリスタンは一緒に旅した仲間だから。でもあいつはあの時、笑って俺の手を振りほどいたんだ」
エレンはやっとベネディクトに視線を戻した。
「トリスタンが、わざと?」
「そうだ。きっとあいつは分かってたんだ。暗殺者があの場にいるって。それに俺の迷いも見透かしたんだ。トリスタンの腕を間一髪で掴んだが、俺はトリスタンを殺せないと思いながらも脅されて板挟みで迷ってた」
ベネディクトは大柄な体を震わせ、また涙が彼の頬や首に伝う。
エレンはその涙が落ちて行く様子をじっと眺めた。自分でもなかなかに冷静だと思う。おそらく、夫にひとかけらも期待していなかったからだろう。夫に対して勘違いだったら申し訳ないなと思っていたけれど、ベネディクトの言葉は信用するしかない。
良かった、これで夫を心置きなくしっかり殺せる。
「それを言いに来たの?」
「妃の一人が幽閉されたと聞いて……もしかしてエレンはすべて知ってるんじゃないかと。懺悔して殺してもらおうかと思ってた。だって、エレンはトリスタンのことが好きだっただろ? じゃなきゃ、あの国王と結婚する理由がない」
エレンはベネディクトに向かって微笑んだ。結婚した理由は違うが、エレンのトリスタンに対する愛が肯定されたような気がした。
「ベネディクト、私に殺してほしいの? 私、攻撃魔法も剣も使えないのだけれど」
「エレンにそんなことを任そうとするなんて……悪い、おかしかったんだ、俺。もう、こんな罪悪を抱えて生きていけない。ずっと、トリスタンじゃなくて俺が死ねば良かったと考えてた」
その言葉はエレンの心に特に響いた。
国王もマリアンヌも生きている価値なんてない。もちろん、エレンも。
「ねぇ、それはあなたに都合が良すぎるんじゃない? 自分の荷物が重いからって私に背負わせて自分だけ死ぬの? この卑怯者」
「エレン?」
「あなたが脅迫さえされていなければ。あなたの実家が横領なんてしていなければ。あの時、私の癒しの力がなくなっていなければ……ドロテアの魔力が尽きていなければ。そもそも第一王子が暗殺依頼なんてしていなければ。トリスタンは死ななかった」
エレンの強い言葉にベネディクトは驚いている。
「協力してよ、ベネディクト。死にたいなら国王くらい殺せるでしょ」
エレンはベネディクトに喋っているのか、自分を奮い立たせているのか分からなかった。それでも口を動かす。エレンに夫を殺すだけの動かせる武力はないのだから。
「俺に何ができるんだ? もう家のことなんてどうでもいい。最初っからこんなこと考えなきゃ良かったのにな……横領がバレたら弟の結婚がなくなるとか実家が取り潰されるとか恥だとか、あの時はバカみたいに考えちまった」
この国にいなかったと言ったベネディクトは、以前よりも口調が砕けている。冒険者でもやっていたのだろうか。
「国王が勇者を殺したとウワサを流して。私からも流す」
ベネディクトは驚いた顔で、そして首を傾げた。
「エレンは王妃だろう? 毒を少しずつ盛るとかできるんじゃないか。王都に来て耳にする評判はエレンのことばかり。国王の素晴らしさなんて誰も語ってない。それなら……そんな回りくどいことをしなくても」
エレンはたびたび姿を見せているし、人気があるのだ。そんなエレンを毒殺しようとした妃を娶っていた夫の評判だって確実に落ちるというもの。国民はエレンに同情的だ。
「だって、すぐ殺すのはもったいないじゃない。もっと弱らせて、ちゃんとトリスタンに懺悔して、苦しんでから死んでもらわないと」
ベネディクトの目が大きく驚愕に彩られる。でも、エレンは平気だった。もっと蔑んだ目で見られていても平気だった。だって、これは正しいことなんだから。
「本当に……君はあのエレンなのか」
「もう聖女じゃないただのエレンよ」
夫への憎しみをここまで言葉にしたのは初めてだった。捕まえて、苦しめて、殺したい。こんなことを考えるなんて、もうエレンは聖女とは程遠い存在になったのだ。聖女だったエレンはトリスタンと一緒に死んだのだ。
驚いてへたり込んだベネディクトの眼帯をそっと撫でると、淡い光が輝いた。
「……癒しの力は失ったはずじゃ?」
「一度失って戻ったの。一番必要な時になかったんだけれど」
エレンは自分の右手をそっと包み込んだ。しばらくしてベネディクトの「分かった。ウワサを流す。他にできることがあれば言ってくれ」という言葉が部屋に小さく響いた。
エレンは神殿に頼んでウワサを流してもらった。王家の力を落として王妃であるエレンの影響力を高めるために協力してくれた。
一部で「王妃になった聖女様もグルで勇者様を殺したのでは?」というウワサが一瞬出たが、エレンの日頃の行いですぐに掻き消えてしまった。神殿で祈っていたエレンの姿を目撃していた人々から、それは違うという声が上がったこともある。
エレンは正直グルだと思ってもらっても全く構わなかった。だって、エレンはあの時トリスタンを救えなかったんだから。暗殺者にも気付かなかったし、のうのうと仇と結婚して三年も生きていたのだ。バカみたいに。
トリスタンのことを考えたら、勇気が湧いてくる。
私は卑怯者なのだ。誰かに縋らないと、自分一人で勇気を振り絞ることもできない。
国王である夫はウワサの火消しに苦慮している。
役立たずと陰口を言っていたエレンにも火消しを頼んできたほどだ。エレンは頷いたが何もしないで放置しておいた。
そんなウワサが蔓延する中、サシャの実家は王家に見切りをつけた。サシャが妊娠しないことを理由に離縁を申し出たのだ。エレンとしても都合がいい。このまま城に留まればサシャも危険だからだ。
ブラックウェル伯爵家は王家に金でも払ったのか、その決定はすぐに下された。
サシャはこれまでエレンのところに頻繁に訪れていたので、実家の決定に抵抗したのかと思ったらそうではなかった。
「聖女様、もし必要でしたらこれを使ってくださいね」
離婚して実家に帰ることをすんなり受け入れたサシャは、香水の入っているような小瓶を取り出した。
「これ、毒です」
エレンは驚いてサシャを見た。サシャは最初に会った時と同じように嬉しそうに笑っている。
「これ以上、私がここに留まれば聖女様の邪魔になるでしょう。私は、少しは聖女様のお役に立ちましたか?」
エレンは瞠目した。
それまでサシャは可愛いけれど空気が読めない子だった。神経を逆なでするような発言もたびたびあった。でも、その認識は間違っていたのかもしれない。
「サシャ。ありがとう」
夫に毒を使うことはないだろう。もっと苦しめたいから。そうすると、これは自殺用だろうか。
「もしものことがあっても、孤児院はブラックウェル家が運営します」
エレンはやっと理解した。サシャは正しく自分の守護者であったことを。
「あなたは私のことで怒って、私のために動いてくれたのね」
「聖女様のおかげで私は兄を失わずに済みました。ここに来て聖女様に会って、何をお望みか私にはすぐに分かりました。ですから、すべては聖女様のお心のままに」
エレンは無言でサシャの手を取って癒しの力を使う。避妊薬は体に不調をきたすのだ。それなのに、彼女は飲み続けていた。エレンのために。
サシャはエレンが失ったと言われている癒しの力を使っても驚かず、美しく礼を執って去って行った。
勇者暗殺のウワサが広がり続けて、とうとう怒った民衆が城に押しかけて来た。
勇者トリスタンもエレン同様に人気が高かったのだ。平民出身の勇者というのも大きかった。
民衆を扇動したのはベネディクトである。彼の言葉であったからこそウワサはここまで広がったのだ。
門が破られた時、そしてその知らせが届いた時、ちょうどエレンは夫と一緒に執務室にいた。ベネディクトから聞いていたので偶然ではなく、エレンはわざと執務室まで来ていたのだ。
「陛下、妃殿下! お逃げください!」
隠し通路の先にはベネディクトが集めた民衆が待機しているので、隠し通路を使って逃げたところで意味はない。エレンは最後まで聖女らしく振舞うことにした。どうせ、マリアンヌの子供はすでに逃がしてあるのだ。
「お待ちください! 陛下が勇者を殺していないなら、逃げることはないではないですか! 話し合えば分かるはずです!」
「興奮した民衆にそんな話は通じません! 早く隠し通路へ!」
「で、では! ここの通路を抜けた先に誰かいたらすぐ殺されます! 神殿の近くに出る通路があれば逃げやすいでしょう。しばらくの間でも匿ってくれるはずです」
エレンの言葉に夫は頷いた。
「エレンがいれば神殿も匿ってくれるだろう。確か神殿に一番近いのは謁見の間からの通路だ」
側近と護衛騎士とともに謁見の間へ足早に向かう。手はず通りだ。
謁見の間に行けばベネディクトが待機しているはず。
前を走る夫はとても無様だ。勇者を殺して聖女を娶って得たはずの王位が揺らいでいるのはどんな気分だろう。逃げるために走る夫の背中を見て、エレンの口角はほんのり上がった。やっと、夫から大切なものを奪うことができる。
目の前に光が飛び散った。
いや違う。これは光を受けたガラスの破片だ。おかしい、ベネディクトとの計画は謁見の間であるはずなのに。そこで、夫を苦しめて殺す計画だったはず。少し早まった? なにか計画に不具合が?
「エレン!」
ベネディクトのものではない声。
エレンが最も聞きたかった声によく似ていた。ここは二階なのに、ガラスを割って外から入って来た人。少し瘦せてはいるが、エレンの好きだった彼にとてもよく似ている。褐色の肌に、燃えるような赤毛という珍しい取り合わせも。
「トリ……スタン?」
計画の遂行を前に幻でも見ているのだろうか。
死んだとされる勇者トリスタンが目の前にいる。周囲の様子を見ると、側近も護衛騎士も驚いた表情だ。
前にいる夫は背中だけで表情が見えない。
突然の勇者トリスタンの登場で全員驚いて歩を止めた。
そんな中で最初に我に返って動いたのは夫だ。護衛騎士の剣を奪うと、すぐさまトリスタンを切りつける。
トリスタンは片手で剣を受けると、難なく夫を投げ飛ばした。
あの動きは間違いなくトリスタンだ。亡霊でも幻でもない。トリスタンは夫が起き上がらないのを見ると、エレンに向かって叫んだ。
「エレン! もう十分だ! 俺は生きてる!」
ベネディクトが何か言ったの? どうしてトリスタンは私がやっていることを知ってるような発言を?
「……死んだはずの勇者様がなぜここに? 双子? そっくりさんか?」
「まさか、民衆を指揮しているのは勇者なのか!?」
護衛騎士と側近の様子から、側近たちは勇者暗殺の件を知っていたのだと分かる。
「三年間昏睡状態だった。エレンの癒しが当たったのと、たまたま薬師に助けられて。それでついこの前王都に着いたんだ。エレンは結婚したけど、国王は新しい妃を迎えたって新聞で読んだから」
トリスタンはエレンに話しかけながら、護衛騎士たちを薙ぎ払って近づいてくる。彼らではトリスタンの障害物にもならない。
「エレン、もういい。君は聖女なんだからこんな復讐じみたことをしなくていい」
「なんで……知って」
あなたにだけは知られたくなかったのに。
いや、そもそもトリスタンが夫のせいで死んだからエレンは復讐をしようと誓ったのだ。でも、トリスタンは生きていてエレンを心配してここまで来てくれた。それなら、もう夫を殺さなくてもいいの?
「サシャ・ブラックウェルのところに押しかけて聞いた」
サシャの名前が出て、エレンの心は少し落ち着いた。
トリスタンが生きていても、夫が彼を殺そうとした事実はなくならないじゃない。夫はトリスタンの未来を奪ったのだ。エレンの幸せも。何を簡単に揺らいでいるのか。
あんな魔物よりも醜い夫は殺さなければいけない。
ちらりと倒れた夫に視線を向ける。ベネディクトは気付いてこちらまで来てくれるだろうか。ダメなら……あの毒を飲ませるしか……。
「君は聖女だ。俺が知るたった一人の!」
「もう、私は聖女じゃない!」
護衛騎士たちをすべて倒して、トリスタンはあっという間にエレンの前にやってきて両肩を掴む。
ずっと会いたかったトリスタンが目の前にいて、エレンの心は大いに揺れた。
もう復讐なんてしないでこのまま逃げてもいいだろうか。そうやってすぐに弱い自分が顔を出す。
外からワーワーと騒ぐ民衆の声が聞こえる。
「あなたは殺されかけたじゃない。生きてるのは運が良かっただけ。それに、この人は王位のために私のことも利用した」
震える声でエレンは自分を奮い立たせた。今、勇気を振り絞らないでいつ勇気を出すのだ。
「そんなの許せるわけがない。こんな人は生きてちゃいけないの」
「俺にとってエレンはずっと聖女だ。だから、こんなことはもうしないでくれ。君の手は癒しを与える手だろ? 復讐に染めていい手じゃない」
トリスタンのまっすぐな言葉はエレンの弱い心を揺さぶってくる。
彼の像を見て、そして虹を見上げて決意したはずの復讐がガラガラ崩れそうになる。
「エレン! 何が!」
謁見の間に来ないことを不思議に思ったのだろう、戦士ベネディクトがこちらに向かってきた。
「は? トリスタン?」
ベネディクトが近付いてきながら、トリスタンの後ろ姿を捕らえて驚いた顔をする。エレンの側からはそれがはっきり見えた。
「っ危ない!」
ベネディクトの叫びと共に、トリスタンが動いた。倒れていたはずの側近がトリスタンに後ろから襲い掛かったからだ。
「なんで勇者が生きてるんだよ!」
「うーん、勇者だから?」
「あの崖から落ちて生きてるなんて思わないだろ!」
「さすがに回復するまでは大変だったよ」
トリスタンは側近とさらに駆けつけてきた騎士たちを軽く相手にしている。ベネディクトも騎士たちに阻まれて交戦を始めた。
俄かに周囲が騒がしくなったので、後ろに下がったエレンは気付かなかった。夫が近付いていたことに。
腹におかしな感触を感じて振り返る。
剣を手にした夫がいた。その剣はエレンの腹を貫いている。
「まさか、お前だったとは」
夫と目が合った。痛みは感じない。
「役立たずでバカなピンク頭に貶められた気分はいかが?」
エレンは血が流れるのを感じながら笑った。夫は怪訝そうな顔をしたので仕方がないから教えてあげることにする。
「執務室での会話を聞きました。楽しそうに妃を選んでいたわね」
またもエレンが笑うと夫は目を見開いた。エレンは腕っぷしもないし、権力もそれほどなかった。だから周囲を利用した。これは弱いエレンの戦い方だ。そしてちゃんとその復讐はエレンに返って来た。
「エレン!」
トリスタンが夫の頭を掴んで壁に叩きつける。残念だ、夫の返事は聞けなかった。
「エレン!」
「エレンは力が戻ってるから大丈夫だ! そのくらい余裕だろ! なんたって腕が千切れててもくっつけられるもんな。この前も俺の目を治してもらった!」
トリスタンは私の体を支え膝枕状態にして、腹の傷を押さえた。ベネディクトは騎士たちを一人で食い止めながら叫ぶ。
エレンは下からトリスタンを見ながら、ぼうっと血が失われていく感覚を味わっていた。トリスタンに触れられたくなどなかった。エレンはもう汚いんだから。
マリアンヌにも夫にも直接手を下したわけじゃない。そうなるように誘導しただけ。でも、トリスタンに知られたくなかった。彼がこの世界にもういないと思ったから、自分の行いを正当化できたのに。こんなに汚いエレンは、聖女とは程遠いエレンはトリスタンに合わせる顔がない。
「エレン? 癒しの力は戻ってるんだろ? 早く癒しを!」
血が止まらないのに気付いてトリスタンが焦っている。エレンは笑って首を横に振った。
エレンは夫やマリアンヌを許せなかった。なんて醜い人達なんだと思った。生きている価値なんてないと断じた。でも、それ以上に自分を許せなかった。
あの時、トリスタンを助けられなかったエレン自身を。あんな夫と結婚してしまった自分を。そして聖女の名声を使って復讐をした自分を最後まで許せなかった。
「おい、早く癒しの力使え! 何バカなこと考えてんだ! エレン! トリスタンは生きてたんだろうが!」
今度は不穏な空気を感じ取ったベネディクトが叫ぶ。
ベネディクトは脅迫されて板挟みになった自分を許せたのだろうか。生きているトリスタンを見て、自分を許せるだろうか。
エレンは許せない。そう、エレンは自分を一番許していなかった。復讐を始めた時よりも今は自分が嫌いだ。だから、夫に復讐できても何も心は満たされない。
トリスタンの震える指がエレンの頬に触れた。
「エレン。頼むから癒しの力を使ってくれ、お願いだ。せっかくまた会えたのに」
トリスタンは黙って欲しい。私は自分に癒しを使う資格などない。
でも、あなたの言葉で心が揺れてしまう。自分のことが大嫌いなのに、あなたの声を聞くとこの世界にしがみついてしまいそうだから黙って欲しい。
「魔王と戦っている時に、暗殺者がいることには途中で気付いたんだ。きっと王位が欲しい王子だと思った」
そんな政治的なことまで考えていたのか、あの状況で彼は。エレンはそんなこと全然知らなかった。
「どうして俺がここまで戻って来たと思う? 暗殺者を送ったのが王子なら、俺は死んだことになってるんだから他国にさっさと逃げたら良かったはずだ」
やめてほしい、期待してしまうから。魔王を倒す旅の道中、トリスタンからの好意は感じたことがあった。でも、気のせいだと言い聞かせてきた。旅の途中にそんなことを口にできるわけがなかった。
「生きていて回復した時にエレンに会いたいと思ったんだ。結婚してるって聞いてショックだったけど、それでも一目会いたかったんだ」
両頬を彼は手で包んでくる。やめてほしい、本気で期待してしまう。せっかく大嫌いな自分をこの世界から消せそうなのに。
「国王が複数の妃を迎えていてもエレンが幸せならそれでいいと思ってた。けど、そうじゃないなら」
そこから先は本当に聞きたくなかった。力が入らない手をトリスタンの方に伸ばす。できれば口を塞ぐように。でもトリスタンが顔を歪めて私の手を握ったので届かなかった。
「エレンの弱さも涙も痛みも全部俺が受け止めるから。だから、エレンには俺と一緒に生きていて欲しい」
失血が酷くて意識がぼんやりしてきた。でも、そんなことを言われたら。エレンは途方もなく弱いのだ。勇気さえ、トリスタンに縋らなければ振り絞れないくらいに弱いのだ。
「愛してるんだ、ずっと。魔王を倒したら言うつもりだった。でも、ベネディクトのこともあって……言えなかった。俺のせいでエレンまで狙われたら申し訳ないから」
額に彼の唇が押し当てられる感触がある。
「もう誰も癒さなくていいから。どうか、俺だけの聖女でいて欲しい。君と一緒に生きていきたい」
バカだなぁ、自分は。
無意識に癒しの力を使ってしまい、淡い光を見てエレンは苦笑した。
そんなことを言われたら、死にたくなくなってしまう。こんな汚れた私でも生きていいって思ってしまうじゃない。
トリスタンがエレンの手を強く握った。エレンも握り返した。
サシャ・ブラックウェルは城に火の手が上がるのを伯爵邸から眺めていた。
「聖女様は勇者様に抱えられて城から無事に脱出されたと報告がありました。戦士様もご一緒です」
「そう、良かったわ」
知らせに来た執事にサシャは安堵して返事をする。
「だって、勇者様と聖女様はセットなんだから。あるべき形に戻ったのよ」
「お嬢様。どういう意味でしょうか」
「そのままよ。勇者様が昏睡状態だったから、聖女様の癒しの力はその時失われていた。勇者様が復活したら聖女様の力も復活した。二人はね、最初からセットなの。あの国王ではダメなのよ」
サシャは城を眺めて満足げに笑った。
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5/24「さようなら、私の冷遇生活~パーティーで声をかけてきたのがヤバい男だった件~」
6/25「尊い5歳児たちが私に結婚相手を斡旋してきます~捨てられ令嬢の私に紹介されたのはなんと宰相補佐~」




