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柔らかく空気を踏みながら、隼人が地に足を付ける。マーリンを警戒しながら後ろに歩こうとし、ぴたりと動きを止めた。
額から一筋の汗が伝う。
「カルカ? 何をしている?」
『隼人。お前こそ何をするのだ』
互いに意識的に落ち着いた声で問い合う。刺激をすれば取り返しのつかない結果に繋がることを恐れているようだ。
客観的に見れば、二人とも油断なく獲物をマーリンに向けているだけ。だが両者の顔には明らかに焦りが浮かんでいた。
「その槍をどけてくれないかい?」
『何を言っているのだ隼人。そちらこそ、背中に刃を突きつけないでくれないか?』
「背中? なるほど?」
隼人の認識では、カルカが握る骨の槍が背筋に押し当てられている。逆にカルカの認識では、隼人のシミターが鱗に触れていた。
「落ち着こう、カルカ。僕らは決して敵対していない。ただマーリンが引き起こした異常に晒されて、互いの武器が背中に触れている。そうだね?」
『あぁ、そうだ……。我々は敵対していない。確定している』
二人とも目だけを動かし、ヴリトラの気配を探った。幸いなことに巨竜は茫洋と何にも興味を示していない。
敵対と判定されれば、カルカも隼人もマーリンも、一切合切の区別無く蒸発させられる。
「えぇと、そうだね……」
隼人が少し躊躇いを見せた。顔をしかめてから、ふっと緩める。
「まず僕が一歩下がってみよう。もしかするとカルカの槍に刺さるかもしれないけど、まぁ必要経費だ」
『逆の方が良いだろう。硬さも生命力も違う』
「いや、政治的にね。それにヴリトラも怖い」
隼人は背中に鋭い切っ先を感じながら、自分の思考を再検討した。
――認識をバグらせてきているか、空間をすり替えたか。特定は必要だけど、僕がカルカに傷を負わせるわけにはいかないからね。彼は永野さんの友であり、配下じゃない。
ナガ本人がどの程度自覚しているかは別として、彼の周囲は組織としての顔を持ち始めている。必然、彼を頂点とした『格』のヒエラルキーが生じていた。
あくまでナガの下についているように見える隼人が、ナガと同格かつ同盟関係の『長』であるカルカを害してはならない。
隼人が半歩下がる。細身の戦闘服にぶつりと穴があき、繊維にさっと血が滲んだ。
「うん、こっちは負傷。槍の穂先は?」
『汚れていないな。抵抗感もなかった』
「なるほどなるほど、少し分かった気がするよ。空間に干渉しているわけじゃないね。となると……」
『認識に干渉し、誤った認識を現実に重ね合わせるようだな』
頷く隼人の口元が引き攣っていた。
お互いの背中に突きつけられた刃は、マーリンが生み出した幻想だ。だが攻撃を受ければ脳は痛みを認識し、ダメージは現実のものとなる。
プラシーボと呼ぶにはいささか過剰な、思い込みのフィードバック。
「これ、下がるな逃げるなってことかな? 中々シナジーある技を持っているね」
彼らの視線の先では、マーリンが徐々に新たな姿を見せつつあった。
肥大化する頭部は、とっくに人間を一飲みできる大きさにまで膨れている。胴や手足は植物の根のようになり、大地に広がりしっかりと食い込んでいた。
醜悪なバオバブの木のようになったマーリンが、海の底から響くような、くぐもった声で言う。
「迂闊に踏み込んで来ない辺り、我が王よりも賢明と言えるのだろう。ただ、間断なき攻撃で手を潰そうとしないのは、『藤原家の小娘』に比べていささか臆病過ぎる。時間は私の味方だ」
隼人は軽く肩を竦めた。
「それよりも、魔法使い君はそんな姿になっちゃって、戻れるのかい? 神々は力を求める人間に優しくはないよ」
マーリンは無言で根の1本を槍のように伸ばす。隼人は容易くそれを斬り払った。次は20を超える数で機銃のように襲うが、隼人はそれすらも容易く斬り捨てる。
マーリンは嘆息した。
「仕方ないではないか。こちらにもこちらの準備や順序というものがあるのに、我が王が変なことをしでかすものだから……」
「あっちこっちから力を借りすぎて板挟みになってるのかな?」
隼人の言葉が核心を突いたのだろう。マーリンの表情が不快そうに歪んだ。
「人の身で出来ることなどたかが知れている。大河の流れが地球すらも押し流そうとしている。それを前に、手段を選ぼうとするお前達は傲慢ですらなく、ただただ愚かで怠慢だ」
樹木化したマーリンが、大地から根を引き抜く。まるでタコの触腕のように波打ち、鈍重な体を持ち上げた。
「我が王のように、個として目先の課題にばかり立ち向かうのは近視眼だ。その支持者たちは、分かりやすく強い個に羨望を向け、何か為してくれると期待して自助を怠る家畜だ。家畜に私の何がわかる」
ついに動き出したマーリンを迎え撃つように、カルカが立ちはだかった。
指を曲げ伸ばしするだけで、拳の骨がごりごりと鳴る。
『思想が異なる者を見下し、何もかも自分の手のひらで転がそうとする策士気取りにしか見えん。だから大いなる神々の手で踊らされるのだ。世界樹だろうが外法の神だろうが……あるいは我らの守護神ヴリトラだろうが……小さく弱い者に力を貸す上位存在にまともな者はいない』
マーリンの額に青筋が浮かぶ。
隼人もカルカの隣に並び立った。
「こっちから引き返すのは難しそうだし、永野さんが来てくれるのを待とうかな。現実的な目標は耐久、理想はここでの討伐だ」




