お人好しアンカーマン
「おい、落合、大丈夫かよ。知っていると思うが、第5工場の管理は激務だぜ」
重い足取りで会議室を出る私の後ろから、第3工場の佐藤工場長が声を掛けてくる。
「おお、佐藤か。――仕方ないよ。誰かがやらなければならないのだから」
溜息に言語を乗せ、私はそう答えた。
私は、大手自動車メーカーの巨大な製造工場に務めている。役職は第2工場の工場長。本日、会社の幹部より、敷地内に8つある工場の工場長のみが徴集され、緊急会議が開かれた。
「そりゃそうだけどさ。あえて自ら立候補することはないだろう? 第5工場の前任の工場長がストレスを原因に入院しちゃった。その挙句退職しちゃった。でも、それはお前の責任ではないんだ。なんでお前が第5工場の工場長まで兼任する必要がある?」
「だって、誰も手を上げないし。でも誰かがやらなければならない事だし」
「お前は昔から変わってねえなあ。なあ、落合、お人好しもほどほどにしろよ。第2工場と第5工場の管理を兼ねることで、もしもお前が過労で倒れてしまったら、結果的に俺たち他の工場長に迷惑が掛かるのだぞ。善意だけで行動するのは逆に軽率な事だって、何度言ったら分かるんだ」
第3工場の工場長、佐藤。こいつは私の小学校からの幼馴染。小中高と同じ、就職先まで同じ、出世の速度すら同じ、の腐れ縁だ。彼は、私が幼少の頃から人のために良かれと思い取った行動で損ばかりしているのを知っている。だからこのように私を激しく諫めるのだ。
「でも後には引けないよ。もう決まったことだし」
「まったく呆れるぜ。やい、お人好し工場長、くれぐれも前任の二の舞にはなるな。俺はお前が心配でならないよ」
「忠告、感謝する。いつもありがとう。まあ、やれるだけやってみるさ」
私は佐藤工場長の肩をポンと叩き精一杯の笑顔を作って見せた。鏡を見ずとも自分の顔面がひきつっていることは重々承知なのだが。
お人好しは損をする。そんな周囲からの忠告は、昔から耳が痛くなるほど聞いてきた。分かっている。そんなことは自分が一番よく分かっているのだ。でも私のお人好しは、我ながら筋金入りのようだ。ハッキリ言って、人を信じやすいとか、揉め事が苦手とか、断れない性格とか、もうそんなレベルではない。病的と表現してよいレベルだ。
今日だって第5工場の臨時の工場長を選出する重い会議の席に居て、絶対に選任されてなるものか、これ以上の労働は死を意味するぞ、と心中で繰り返し自分に言い聞かせながら、私は懸命に気配を消していたのだ。
しかし、会議の終盤で私は挙手をしてしまった。会社から圧力を掛けられたわけではない、第5工場の工場長に何かしらの恩があったわけでもない、二つの工場を掛け持ちで管理する能力も体力も私には絶対に無いのであるが――でも誰もやりたがらないし、でも誰かがやらなければならない事だし、ここで自分が立候補をすれば全ては丸く収まるような気がしたし、なんだか段々と自分が適任のような気もしたりして…こうして、不覚にも私は自ら第5工場の臨時の工場長に立候補をしていたのである。
ああ、またとんでもない重荷を背負うことになってしまった。足が重い。どうしよう。家に帰りたくない。幼馴染の佐藤の説教も苦手だが、家に帰れば、もう一人お説教を頂かなければならない人物がいる。――妻である。妻にこの件を報告しなければならない。「また安請け合いをして!」と怒るよなあ、あいつ。怒るに決まっているよなあ。
――――
「ねえ、あなた、聞いてよ! リョータが今日学校で――」
自宅の玄関扉を開くなり、妻が待ちかねたとばかりにこちらに駆けてきて、小学六年生の長男のリョータの話を怒涛のように始めた。
「リョータが今日学校で、運動会のクラス対抗リレーのアンカーに選出されて帰って来たのよ! まったくあの子ったら、運動なんてからっきし駄目なくせに、また安請け合いをして!」
家に帰ったら開口一番に第5工場の件を妻に報告しようとしていた私は、すっかりそのタイミングを逃してしまった。
「クラス対抗リレーと言えば運動会の最終演目じゃないか。しかし解せないなあ、運動会の開催日は明後日だ、なんでまたこんなギリギリで選手の選出をするのだ?」
「もともとアンカーに選ばれていた生徒が、昨日部活で足を骨折して出場出来なくなったらしい。それで、代わりのアンカーを選ぶ臨時のクラス会で、あの馬鹿リョータったら――」
「まさか、また自ら立候補したのか?」
「はい、そのまさかです。絵にかいたような運動音痴のくせに。まったく、誰に似たのやら」
私は、キッとこちらを睨む妻から反射的に目を逸らした。
「クラス委員、通学団の班長、吹奏楽部の部長、リレーのアンカー、リョータは何でもかんでも引き受けて帰ってくる。ねえ、あなた。あの子、ひょっとしたら学校で虐められているのではないかしら」
「まさか、考え過ぎだよ」
「虐めというレベルでなくても、なんとなく孤立した存在なのかもしれない。いつも親の前では『みんなのために自ら進んで――』なんてうそぶいているけれど、本当はクラスメイトの見えない圧力に屈してしまっているのかも。お願い、あなたから、リョータにそれとなく聞いてみてちょうだい」
妻に促され、私は子供部屋をノックする。
「リョータ。パパだよ。話したいことがある。入っていいか?」
「うん」
一室をカーテンで二つに区切った子供部屋の手間側に長男のリョータはいた。カーテンの向こう側から、妹が一人でお人形さん遊びをする声がしている。
「お前、リレーのアンカーに選ばれたんだって?」
「うん」
「パパがひいき目に見ても、リョータは運動が得意なほうには見えないけどなあ。なあ、リョータ。リレーのアンカーを引き受けた理由を、正直にパパに教えてくれないか?」
「理由? 特に理由なんてないよ。仕方ないじゃん。誰かがやらなければならないのだから。そりゃあ、僕だってリレーのアンカーなんて本当はやりたくないよ。だから、はじめはクラス会で懸命に気配を消していたんだよ。でも誰もやりたがらないし、でも誰かがやらなければならない事だし、ここで僕が立候補をすれば全ては丸く収まるような気がしたし、なんだか段々と自分が適任のような気もしたりして――」
「ああああもう、だいたい分かった! 皆まで言うな!」
我が事のようで、聞いていて辛くなる。思わずリョータの発言を強制的に封じてしまった。
「ママ~。もし僕がリレーで一番になったら、晩御飯はホットプレートで焼肉パーティーね~。約束だからね~。絶対だからね~」
リョータが私の脇をすり抜け部屋を出て、妻に運動会当日の晩御飯のメニューの交渉をしている。結局私は、第5工場の件を妻に言い出せなかった。
――――
「ほら、クラス対抗リレーの選手入場だ。あ、あそこにリョータがいる。おーい、リョータ! がんばれー!」
「どうしましょう。私が緊張してきちゃった。今にも心臓が飛び出しそうよ」
運動会当日。私と妻は観客席にいた。天気にも恵まれ、予定されていた演目も順調に進行し、いよいよ最終演目クラス対抗リレーが始まる。
クラス対抗リレーとは、各学年1組から5組まであるクラスが、一年生から六年生までを一つのチームとして、バトンを渡しながらグランドを走る競技だ。レースは一年生からスタートし、六年生がアンカーとなる。リョータは、2組のアンカーだ。
2組のチームカラーである鮮やかな青のハチマキをし、同じく真っ青な面持ちでグランドにスタンバイをしている。
スターターの銃声で、ついにレースが始まる。
可愛らしい一年生たちがいっせいに走り出す。おのずと私は青のハチマキをした一年2組の生徒を目で追った。は、速い。なんて速さだ。青いハチマキの一年生は、他の生徒から大きく差を広げ二年生にバトンを渡した。そこからは2組の独走態勢だった。三年生、四年生、五年生、青いハチマキたちは、勇ましくレースの先頭を走り抜け、アンカーのリョータにバトンを繋いだ。
「行けリョータ! 一等賞なら焼肉だぞ! 走れ、がんばれリョータ!」
私は周囲を気にすることなく大声で応援をした。リョータは全力で走った。が、持って生まれた運動能力とは、いかんともしがたいものだ。二位との差は瞬く間に縮まり、あっという間に全選手に追い抜かれ、挙句の果てに、自分の足に足を絡ませ、グランドに激しく転倒をしてしまった。
「リョータ!」
妻が悲鳴を上げる。リョータはグランドの土を巻き上げながら一回転をして倒れ伏した。大歓声に包まれていた会場が一瞬静まり返る。数秒の後、顔じゅうについた土を払いながら、リョータは照れ臭そうに立ち上がった。
膝小僧から血が出ている。怪我をした足を引きずるように歩き出す。他のチームのアンカーは、すでにみんなゴールしている。グランドにはリョータ一人だけ。それでも諦めず、懸命にゴールを目指すリョータの雄姿に、会場から自然と拍手が沸き上がる。生徒や保護者の拍手喝采のなか、やがてリョータはゴールをした。
「ああ、リョータ、膝からあんなに血が……」
目を真っ赤にした妻が、ゴールと同時に力尽き地面に座り込んだリョータに、観客席のロープをくぐり、駆け寄ろうとする。
「待て! 行っては駄目だ!」
私は、背後から妻を制した。振り返った妻が私に反論をする。
「なぜ止めるのよ! 息子が怪我をしているのよ、助けてあげないと!」
「親の出る幕ではないさ。ほら、見てごらん」
妻がグランドに視線を戻すと、2組の生徒たちが一斉に駆け寄り、リョータを取り囲んでいる。
「おい、リョータ、大丈夫か?」
「落合くん、立てる?」
「リョータ。お前、すごいじゃん。スターじゃん」
「てか、転んでんじゃね~よ。てめえのせいで2組はビリッケツじゃんか」
「ちょっと、その言いかたは無くない? だったらあんたが落合リョータの代わりにアンカーをやればよかったじゃん?」
「おい、菊池、やけにリョータをかばうじゃないの。あれ~、ひょっとしてお前、リョータのこと好きなんじゃね~の?」
「そ、そんなんじゃないわよ、バカ男子。さあ、落合リョータ、いつまでここに座り込んでいるつもり? 保健室に行くよ。ほら、私の肩に掴まって。ほら、立ちなさいってば」
「痛い、痛い、痛い、怪我人を手荒に扱うなよ、菊池マリコ~」
リョータが、一人の女子生徒の肩に掴まり――
「ひゅーひゅー、お二人さん、熱いよ、熱いよ」
「落合リョータ、がんばったな!」
「リョータ、お疲れさん!」
「落合くん、かっこ良かったよ!」
――たくさんのクラスメイトに見送られながら保健室へと向かって行く。
妻がハンカチで涙をぬぐっている。私も目頭が熱くなった。虐められているのではないか? 孤立しているのではないか? どうやら私たちの思い過ごしだったようだ。
子供は親の知らない間に成長をしている。自分たちがいなければ何も出来ないなんて、それこそ親の思い過ごし、いや、思い上がりだ。子供は子供なりに立派に社会を形成していて、息子は息子なりに、その子供社会で自分を活かす方法を真剣に考え、それを全力で実践している。女子の肩に掴まり、ヨタヨタと歩く息子の後ろ姿に、私は得も言われぬ頼もしさを感じ、とても嬉しくなり、少しだけ悲しくなった。
――――
日暮れ時。妻と共に帰宅した私は、リビングで今朝読めなかった朝刊に目を通している。妻はキッチンで晩御飯の準備中。肉を解凍し、野菜を切っている。もうすぐ息子が学校から帰ってくる。
「あれれ、今夜は焼肉パーティーかい?」
「そうよ」
「でも、リョータは一等賞じゃなかったよ?」
「そう? ある意味、一等賞だったわよ?」
「ははは、まあね、勝てなかったけれど、負けてはいなかったね」
「うん。あの子、負けていなかった」
「…………あのさ」
「なに?」
「実は、君に報告しなければならないことがあるんだ。会社でね、第5工場の工場長が突然退職をしてしまってね――」
「ただいまーーー!」
その時、玄関から勇ましき少年の声。リョータが帰ってきたのだ。
「ほら、お人好しアンカーマンの御帰宅よ。仕事の話はまた今度」
ああ、この肝心な時に。とほほ、また言いそびれてしまった。
玄関からリビングへと続く廊下から、ドタドタと息子の足音がする。リビングの扉のドアノブが、握られるのを待っている。