笑顔の正体〜ある男の犯罪歴について〜
スマホが震えている。画面は電話の着信を伝えている。表示されている名前を見て、すぐにいまの時刻を確認した。
朝の8時20分。
それを認めた瞬間、電話に出ることに躊躇いが生まれる。朝の出勤通学の時間。混み合う電車。そこで起こってしまう悲劇。頭から振り払おうとしてもスマホの震えがそれを許してくれない。
慎二。スマホの振動が彼の叫びのように聞こえてくる。早く、早く出てくれよ! 自分の悪い予感を払拭するために。ベッド上のスマホをゆっくりと拾って、ようやく電話に出る。
「あ、おじさん?」
思いの外落ち着いた声音。とりあえず安堵していいのか。甥のその一言では判断がつかない。
「どうした。こんな時間に」
出勤時だろう。電話してる暇なんてあるのか。そんな言葉がでかかったが、すんでのところで堪える。すぐに挫けるのだ、この甥は。
「いや。まあ。なんというか」
はっきりとした用件を伝えないことに、嫌な予感だけが膨らむ。そしてその膨らみが一気に破裂した。甥の次の言葉で。
「逃げてきたんだ、なんとかしてよ。おじさん」
縋るというよりは軽んじられてると言った方が正しいかもしれない。伯父に言えばなんとかなる。そんな考えが透けて見えた。
慎二はいくつになった。途端に頭で勘定する。23。何かを諦めるには早すぎるし、何かを始めるにも最適な年齢。もっとも、佐伯自身はいくつになっても人生はやり直せると思っている。だから甥にはチャンスを与えた。それなのに。
「なにを。したんだ」
本当は訊ねるだけでも吐き気を覚えるほどだった。絞り出すように問いかけると、慎二は小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「なんだよおじさん。ビビってんの?」
怒りと羞恥で視界が歪んだ。慎二はまるで懲りてない。人を試すような戯けた口調は、それだけで神経を逆撫でする。
「ふざけるなっ!」
犠牲と代償について、甥は何も分かっていない。それがどれだけの労力を必要としたのか、どれだけの良心を削ったのか。
「ふざける? それはなに。自首しろってこと?」
警察に捕まったところで、僕はびくともしない。そういうことを伝えたいのかも知れないが、その言葉が佐伯の心中を動揺させることを、慎二はきちんと把握している。
「それされて困るのはさ。おじさんの方でしょ?」
「お前と心中するつもりだ」
咄嗟の答えだったが、その気がないのは佐伯自身が一番分かっている。こんな、ろくでもない甥と一緒に破滅なんて死んでもごめんだ。
「はいはい。それもありだね」
全てを見透かしたような慎二の言葉に。殺意すら芽生えた。ああ、そうしてしまおうか。これ以上社会に迷惑を掛けるなら、いっそこの手で。
「馬鹿なこと考えてないでさ。どうすればいいか教えてよ」
コイツは妙なところで心情を汲み取ることがある。そう。決して人として劣っているわけではないのだ慎二は。ただ、彼の過去が。
佐伯は時々考える。兄が生きていれば、慎二はまっとうに育ったのかもしれないと。
「おじさん。僕には無理みたいだよ」
「何が」
「まっとうに生きることが」
依然としてへらへらとした口調だが、その声音は幾分強張っているように聞こえた。
「やっぱりさ。ダメなんだよ。最初っからケチがついてる人間はさ、この先もずっと。ダメなんだよ」
そんなことない。そんなこと、あるわけない。この場に相応しいはずの言葉がこんなに似合わないのも珍しいのではないか。
佐伯の頭を過ぎるのは、慎二の笑みだった。
泣きたい時に笑っちゃうってどういう気持ちなんだ。何の気なしに慎二に聞いたことがある。
他意はなかった。そういう症状があるということも知らなかったし、兄がそれを面白そうに話すものだから、そこまで深刻なものだと考えなかった。いま思えば迂闊だったとしか思えない。甥との距離感を模索していたせいもあったかもしれないが、とにかく残酷にさえ感じてしまいそうな質問を、だいの大人が小学生の男の子に聞いていた。
慎二は何度も逡巡していた。それが言葉を探そうと必死になっているのだと気づくのは、一緒に過ごすようになってからだった。
「頭が。ボヤーってする」
「なんだそれ」
「いっぱいいっぱい穴掘って。反対側に着いちゃった感じ」
「着いちゃって、どうするの」
「ああ。一緒なんだって。だったら笑った方が楽しいでしょ」
なんとなく話を合わせたけれど、言っている意味はまるで分からなかった。なんなら小学校高学年の感性を舐めていたと言ってもいい。兄にも深くは訊ねなかった。わざわざ口にしていたということは、本人は人一倍それを気にしていたという可能性もある。あえて突っ込むようなことはしなかった。
「感情をさ。試したいんじゃないかって思うんだ」
兄は息子の慎二の症状をそんな風に受け止めようとしていた。
「喜怒哀楽。それぞれはもちろん別物だけど。両極端な情感だけど。突き抜けちゃえばおんなじなんじゃないかって。それを言いたいんじゃないかな」
その解釈は。親バカだと笑っていいのか不憫に思って同情したらいいのか、まったく判断がつかなかった。自分の息子を悪く言う親はいない。それでも周りと違う明らかな個性を、兄が持て余しているようには見えなかった。かといって、うまく褒められる要素がないのも事実なわけで、兄も子育てに頭を抱えているのだなと、まさしく他人事にそんなことを思った。
兄夫婦が火事で亡くなった時、慎二は涙を流して笑っていた。親戚はそんな彼を悪鬼でも見ているように睨みつけていた。それでいて目が合えばすぐに逸らす。関わってはいけない。誰もがそう思っていた。もちろん、佐伯も含め。それでも最終的に佐伯は慎二を引き取ることにした。他の親戚があてにならないというのもあったが、決め手となったのは火事の原因を知った時だった。
原因はキャンドルだったと言う。兄夫婦は週末の夜は電気をつけずに火の灯りだけで夜を過ごすという奇特な習慣を持っていた。火事の当日、慎二は同級生の家に泊まっていた。 久しぶりの夫婦水入らず。何をしていたのかは、焼けた遺体に衣服の痕跡が無かったことから容易に推測がつく。
夜の営みの最中に、キャンドルを倒したかしてしまったのだろう。確かに悲劇だ。でもそれは肉親だからそう思うだけで、まったくの赤の他人だったら何を思うか。無責任な第三者ならば。
おそらく、その様を想像して、不謹慎ではあるがシュールで滑稽だと思うのではないか。当人が必死であるほど引き出されてしまう笑いというのは確かに存在する。兄夫婦の場合がまさにそれなのではないか。
慎二を引き取ったのは単に不憫に思ったからだけではない。では他に何があるのかと言われれば、兄夫婦の火事の原因を、佐伯は考えてしまうのだった。
「それで。何をしたんだ」
電話越しの慎二の声に余裕が感じられるのは、はたして良い向きなのだろうか。何かを起こしたのは確実なのだ。うまく火消しに努めなければならない。
「何って。なんで決めつけるんだよ」
「お前こそ何言ってるんだ。逃げてきたと言ったのはお前だろう」
ああ、そうだったっけ。随分と呆けているような声が返ってきた。良くない流れだぞ。佐伯は自分に言い聞かせる。最悪を想定しておけ。
「いまどこにいるんだ」
「分かんない。どこだろ。騒がれる前に逃げてきたんだ」
「じゃあやっぱり。またなのか」
「こうなるとさあ。もう病気だよね」
警察という組織は身内に甘い。慎二が捕まった時は、真っ先に連絡が入った。そして聞かれた。どうするか、と。
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。率直に思ったのは、これで自分の警察人生が終わるということだけだった。しかし、選択肢を続けて問われたことで気付かされた。警察人生をあっさりと辞められないキャリアに自分がいることを。
いま佐伯のいる立場で、身内の不祥事が判明したら。その不祥事を無かったことにして平穏を決め込むか。決断は早かった。最近の政治不信も、決断を早める決め手になった。これ以上いたずらに民衆を動揺させることはないのではないか。
決断すれば後は早かった。その場で捕まった慎二は翌日には外の空気を吸えた。事件は公にならなかった。最初の数日は新聞記者に怯えたが、その恐怖も次第に薄れていく。
まさに。現実は平穏を決め込んだ。甥の性犯罪が無かったことにされた。被害者がその家族がどうなったか、佐伯は知らない。知ろうとすればできたのだろうが、どうしてもそれはできなかった。不祥事の揉み消しという事実だけで、心の重りは充分だった。そこに被害者の怨嗟の声など加えたくもないというのが本音だった。
「どうして。どうしてお前はそうやって」
言いながら。佐伯は果たして自分は何が言いたいのか、自分でも分からなくなっている。慎二を叱りたいのか。いまのキャリアへの執着か。それとも揉み消しへの不安か。
「とりあえず。ウチに帰ってこい。話はそれからだ」
「いや。帰ってもな。たぶん無理だよ」
「無理ってなんだ」
「いやだから。あはは」
電話越しで掠れる笑い声。その声を聞いて佐伯は背筋が凍った。兄夫婦の葬儀の中で聞いたのと、それはまったく同じ笑い声だったから。
「さすがに。3人目は。バレるでしょ」
「はっ? 3人目? 何を言ってるんだ」
「父さんと母さんが、さ。汚いことやってたから、さ。だから今度は僕がその真似をしようとしたんだけど嫌がられて、さ。だから、さ」
兄夫婦の家と慎二が泊まっていた家は近所だった。不意に思い出される記憶。だから。だからなんなのだ。
「お前。もしかして……」
不意に。顔に手を当てた。自分がいまどんな顔をしているのか、そればかりが妙に気になった。