プロローグ
どうぞ、お納め下さい。
腹部に突き刺さったナイフから、じわりと血が滲んでいく。それと同時に痛みが突き抜け、青年 井坂久遠は顔を歪めた。
だが、ナイフを持つ腕を掴んだ手を離すわけにはいかない。
たとえ自分が死のうとも、それだけはやってはならない事だと。そう、信じているから。
♦︎♢
それは、何の変哲もない日常。
久遠は久しぶりに妹 静葉と買い物に来ていた。
服を買うのに付き合って欲しいと言われ、特に用事もなかったのでショッピングモールに同伴したのだ。それ自体に問題などなかった。仲の良い兄弟ならなんら不思議ではない行動だ。
まあ.......久遠たち兄妹は仲が良い、とはいえないが。
静葉の言う通りに彼女が服を選ぶのに付き合い、時には意見を求められる。その都度素直な褒め言葉を吐き、大体の服は似合っていると褒めそやした。
お世辞などではなく、本当に可愛いと思っての言葉。久遠が静葉に嘘をつくなどあり得ないというくらいに、彼はシスコンだ。
「これ.....どう?」
「いつもとは違う感じで良いんじゃないか?それもよく似合ってると思うぞ」
「なら、これにしようかな」
「よし、なら兄さんが買ってやろう」
とあるおしゃれな服屋の中にて。
二人は買い物を楽しんでいた。まあ、今のように静葉が意見を求め、それに久遠が返すということが繰り返されているだけではある。
「兄さんもこれとか着てみなよ」
「いや、俺の服は別に....」
「いいから着て。いつまでもダサい服ばっか着てられると私が嫌なの」
久遠のファッションセンスは決して悪くはない。ただ、それを帳消しにするほど興味がないだけだ。
(どうもオシャレには興味が持てないんだよなぁ)
静葉が意気揚々と服を探しているのを見ながら、久遠は思う。ちゃんとすべき所では別だが、他人にどう思われようとどうでもいい。自分を無理に着飾るよりも、それを含めてその人自身なのではないか。
それが久遠の考え、もとい言い訳だ。
そのせいか、久遠は静葉と出かける際にもジーンズにパーカーという格好で出かけようとしてダメ出しを喰らっていた。
「ほら、兄さん。これとこれとこれ、全部試着してきてね」
いつのまにか戻っていた静葉に何着もの服を手渡され、久遠はその重みに苦笑を漏らす。
その後は久遠の服を選んだり、お昼ご飯を食べたりと、何の異変もなく休日を過ごした。今の久遠は途中の店で買った洋服に身を包んでおり、元のルックスも相まって少しは格好良さげに見えている。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
「ん、了解」
静葉を見送り、久遠は近くにあったベンチに腰を下ろす。腕にかけられた膨大な荷物を隣と足元に置き、深く座り込んだ。
(思ったより疲れたな。筋肉が足りない、筋肉が)
買った物を持っていた手が痛い。エコバッグの持ち手が食い込んで、赤い跡を残していた。
「まあでも、静葉のためだ」
パンッと頬を叩いて気合を入れ直す。
それから十分ほど待つも、静葉が帰ってくる気配はない。心配になってお手洗いの近くまで行くと、久遠のシスコンセンサーが静葉の姿を捉える。
「なあなあ、少しくらいいいじゃん!付き合ってくれよ〜」
「ちょっとだけだからさ、お願い!」
余計な異物も込みで、だが。そして、怯えたような静葉の顔。
それを見た瞬間、考えるまでもなく久遠の体は動く。今にも静葉の肩に触れそうな手を掴み、そこに思い切り力を込めながら言い放った。
「うちの妹に何か?」
普通なら、久遠のような線の細い体型の男に引き下がることなどしないだろう。だが、今の久遠の目は普段とは考えられないほどに鋭い。
「あっな、なんでもないっす....」
凄み、というものを感じたのか、ナンパ男達は去っていった。引き下がらなければ殴っていたであろう。拳はすでに用意されていた。
「静葉、大丈夫か?何かされてないか?」
「う、うん。兄さんが助けてくれたから大丈夫」
「そうか......なら良かった。悪いな、遅くなって」
顔は覚えた。次があれば容赦はしない。久遠はそう決意し、要注意リストに彼らの顔面を焼きつけた。
不躾な事件があったはものの、それを除けば良い買い物ができた。
そして、最後は久遠の買い物。ショッピングモールにある巨大な書店にやって来ている。
真っ先に向かったのはライトノベルのコーナー。今日は久遠の追っているシリーズの最新巻の発売日なのだ。
「お、あったあった」
その人気ゆえか残り冊数の少ない内の一冊を取る。
題名は『聖剣と戦乙女』。よくある異世界ファンタジーだ。
「それ面白いの?」
「おう、めちゃくちゃ面白いぞ。静葉も読むか?」
「うーん、私はいいかな」
かたやオタク気質の兄。片やオシャレな妹。趣味が合わない二人ではあるが、そこそこ上手く付き合っていた。
他に買いたい物も無く、二人は帰るためにモールの入り口へと向かう。
が、事故、事件、etc。それは突然やってくるもので——。
「キャアァァァァァ!!!」
始まりはそんな、甲高い叫び声だった。
「なんだ....?」
前から聞こえてきた悲鳴に、動きが止まる。そんな中、一人の黒いフードを被った男がこちらに走ってくるのを久遠は見逃さなかった。
そして、それが何か危険だということも。
確たる証拠があったわけでも、何処かで見たことがあるわけでもない。ただ、本能が告げていた。
もう時間はない。逃げている時間など、なかった。
静葉を突き飛ばし、場所を入れ替わるようにして立つ。
「兄さっ....!」
次の瞬間には、ナイフが深々と久遠に刺さっていた。
「兄さん!!」
痛い。それは当然だ。
人体の急所とも呼べる腹に刃物が食い込んでいるのだから。
「........っ逃げろ!早く!」
それでも、久遠は声を張り上げる。更に痛みは増す。逃げ出したい、叫び声を上げたい。人生の中で感じた事もないような激痛が身体を這い回る。
無意識のうちに掴んでいた男の手を離してしまいたい。そんな考えに頭が支配される。
しかし、それを理性は良しとはしなかった。
これを離せばどうなる?男は襲うだろう、他の人を。他人が死ぬのはどうでもいい。だが、静葉が死ぬことだけは耐えられない。
ゆえに久遠は腕に力を込める。決して離さぬように、ここから動かぬように、万力を込めて男を抑え続けた。
ナイフを抜こうと男が腕を振り、腹の中がかき回される。気絶しそうな痛み、涙が出る、汗が出る、衝撃的な苦痛に感動さえ覚えていた。
しかし、唐突に痛みはなくなる。
ナイフが抜けたのではない。感じることすらできなくなったのだ。
それは、肉体の限界。人という体の限界が訪れたことを意味していた。
(暑い.....寒い......身体が震える.....)
声を出す力もなく、久遠の体は地面に崩れ落ちる。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえていた。
砂嵐のようにぼやけた視界と、段々と聞こえなくなる耳が、久遠に死を実感させる。
「重....者一.........急.....!!」
静葉を守れたのなら、久遠に後悔などない。
これが最善の選択肢だったと、胸を張って言える——
はずだった。
(ああ、来月は——静葉の誕生日だった)
それを境に、久遠の意識は途絶える。
ショッピングモールで起こった無差別殺人事件。それは日常の一部としてニュースで放映された。
そこに関心などなく、多くの人がいつものことかと直ぐに興味を無くす。それが普通だ、それが正常だ。
だから、知る術などなかった。
井坂久遠。彼の命が別の世界で生きているなんてことを。
今日はとりあえず二話です。