第一話 君のいない街
雨戸の隙間から漏れる陽の光を瞼に受け、今日もまた夢から覚める。
厚手の掛け布団とボアシーツの従える睡魔に逆らいつつ重い身体を持ち上げる僕は、そのまま視線の先にある閉ざされたカーテンの方へと移動。ガラガラという古臭いブリキ音と共に、外界と自室とを隔てる鉄の壁は開け放たれた。
うん、今日もいい朝だ。
昨日の日中から夜中にかけて続いた降雪のせいか、快晴であるにも関わらず吹き抜ける風は冷たい。しかし、今はその冷風が活動を始めたばかりの脳を目覚めさせてくれているようでどこか心地よい。ゆっくりと深呼吸をして一拍置くと、僕は窓を閉め部屋を後にした。
僕の名前は「片式 鉄」。どこにでもいるような、普通の17歳だ。
「鉄くん、ご飯できてるよ〜」
一階のリビングへと向かう途中、母親が僕の名を呼んだ気がした。
両親は共に海外出張中で、そんなことありえないのに。きっと僕はまだ寝ぼけているに違いない。早く顔を洗ってやらねば、そのうち幻覚まで見せられそうでおっかない。
道中の洗面所で顔を濡らし、そして髪を整えた。
その次はトイレに駆け込み、朝一番の快便を達成。
その次は、廊下でごろんと寝そべる飼い猫兼友人の「ミーコ」に餌をやり…そうこうしているうちにリビング前まで来てしまった。
「…母さん居ないんだっけか」
なんてわざとらしい独り言で、朝食を作らなければいけないという面倒事に愚痴を吐きながらも、すでに僕は眼前のドアノブに手をかけていた。
──ガチャン
…誰もいないはずのリビングから、何か物音が鳴った気がした。
ミーコの仕業かとも一瞬考えたが、当のミーコは今僕の隣で彼女の朝食を貪っている。つまり、犯人はミーコではない。
ガチャガチャ
聞こえた。しかも今度ははっきりと。
「おいおい…まさか空き巣か何かじゃないだろうな。ミーコ、どう思う」
猫は人語を喋らない。代わりにミーコはミャーと鳴く。
『飯食ってんのが見えねぇのかボケナスが。雄ならもっとドカッとしやがれ玉無し野郎』
ポケットに忍ばせたスマホから、えらく汚らしい音声が流れ出る。
最近インストールしてみた「自動猫語翻訳アプリ」も、この状況下では何の役にも立たなさそうだ。僕はそっと「アンインストール」をタップした。
チーン
今度は電子レンジの音がドアの向こうから聞こえてくる。どういうことだ? 最近の空き巣は出稼ぎ先で飯まで作るものなのだろうか。それとも、パチンコ玉を詰めた鍋でも熱しているというのだろうか…。どちらにせよ、このまま放っておくことは難しそうだ。
突入、しかなさそうだな。
「ミーコ。僕も雄だってこと、ちゃんと証明してやるよ」
そうミーコに言い残し、僕は思い切って戸を開けた。
「あ、鉄くん起きてたんだ。ご飯できたから早く食べよう」
花のように笑う少女が、そこにはいた。
残念というか、むしろ喜ばしいというか。扉の向こうには、僕が期待したような危険人物の影すらなかった。
が、別ベクトルで危険な人物が約1名、フリルのついたエプロンに身を包み台所に立っている。
背は小さく、それでいて異様な存在感を醸し出す制服姿の女の子。腰まで伸びた長い髪は丁寧に手入れされており、見る角度によっては光沢が走る。瞳も大きく、見開かれたその双眸はまるで水晶のよう。
そんな危険人物に、僕は一人心当たりがあった。
「双葉……何でここにいるんだよ」
「えー、だって鉄のご両親海外出張なんでしょ? その間一体誰が可愛い " 幼なじみ " の世話するのよ」
「僕のこと、ミーコと同列に考えるのやめてくれないか」
彼女の名は「双葉萌優」。
僕と同級生で同じクラスの女の子。そして僕の幼なじみかつお隣さんなのだが──
「大体、どうやって家の中に入ったんだ。ちゃんと寝る前は戸締まりしたはずなんだけど」
「合鍵、作っちゃった」
時代遅れの横ピースでとんでもなく恐ろしいことを口走る双葉。そう、コイツは少し…というかかなりズレている。
幼稚園児だった頃に交わした、「大きくなったら結婚しようね」という約束を未だ本気にしてるし、「鉄くんのため」という大義名分があれば犯罪まがいな行いもスルリとこなしてしまう。ついでに言うと髪の毛の色も薄ピンク、つまりヤバい。
「あっ。鉄くん、今私のこと『ネットでよく見るヤベー奴』って思ったでしょ! よーつべでネット民の反応集とか作られてそうとか考えてるでしょ!」
「そこまで僕の考えてることがわかるのに、何で僕がいい顔しないようなことばっかすんのかね…」
「愛故に」
「世界はそれを『狂気』と呼ぶんだぜ?」
「世界は世界、私は私。さ、ちゃっちゃとご飯食べて学校行こう!」
上手く誤魔化せたと思うなよ。
…とまぁそんなこんなで、僕は面倒に思っていた朝ご飯を作らなくてもよくなったというわけだ。ただただ双葉の用意してくれた目玉焼きサンドを頬張りコーヒーを啜るのみ。正直言ってちょっと感謝してる。
「目玉焼き、半熟でよかったよね」「うん。めっちゃ助かる」「双葉も早く食べろよ」「私はいいよ。ダイエット中なの」「変に食べない方が太るぞ」「…じゃあ、ちょっとだけ」──忙しいはずの朝なのに、時間はゆっくりと流れていく。こんな、アニメや漫画でしかみないようなシチュエーションで落ち着いていられるのは、僕と双葉の関係あってこそだろう。
合鍵の件でもそれほど驚かなかったのは、彼女の奇行にすっかり慣れてしまった自分がいたからだ。
10年という年月は、ここまで人を狂わせるものなのかと思うと何だかおかしくなってきた。双葉のみならず、僕自身も彼女を容認できるほど十分にズレているではないか。
「じゃ、食器類は水に浸けといてね。私そろそろ行くから」
「あ、おい。僕も行くからちょっと待ってくれよ」
僕はマヨネーズで汚れた皿を軽く水にさらし、ソファに放られた鞄、そして高校のブレザーを手に取り足早に玄関へと向かう。
「鉄くん、マフラー忘れてない? 今日寒いよ」
そうだったそうだった。僕は再度リビングへと駆け込み、そしてタンスの中からマフラーを2つ取り出す。一方は僕の。
「双葉、お前この前家来たときに忘れていっただろ」
「あれ!? 失くしちゃったと思ってた。私のマフラー、鉄くんの家にあったんだね」
そしてもう片方は双葉の物だ。
「全く、大切にしてやれよ? 触った感じいい値段しそうだったし」
「…もしかして鉄くん、私のマフラーで変なことしちゃってたり!?」
「今度置いていったら暖炉に焚べてやる」
「それで鉄くんが暖を取れるなら…こいつも本望だよ」
そっとマフラーに手を当てる双葉。こいつは焚べられるために作られた防寒具じゃあありません。ったく、ズレてるくせにブレはしないのな。
「って、もうこんな時間! 鉄くん、今日は走るよぉ」
つられて、僕も自分の腕時計を確認する。現在時刻は8時15分、学校までは徒歩20分、始業のチャイムまであと25分。確かにヤバいな。
双葉はガチャリと扉を開け、そして僕の手を引いて走り出す。
外にはまだ雪が残っており、雪かきに精を出すご老人もちらほら。そんな12月のよくある日常風景の中を、僕と双葉は北風の如く駆け抜ける。
流れ行く日常に置いていかれないように、一歩一歩を強く、そして確実に。
「やっぱり、ローファーだと走り辛いね」
「足元ばっかじゃなくてスカートも気を付けろよ。朝から見苦しい」
「うわ…さすがにそれはひどいかも」
うん、我ながら結構ひどいセリフだと思った。あらゆる角度で。
大通りを抜けた先、小川に架かる小さな橋を渡り公園を通る。近くにある神社でショートカットした次の通りの横断歩道。ここさえ越えればもう我が学舎が見えてくるはずだ。
「やっばい、もう登校してる人ほとんどいないよ」
「大丈夫だって。このまま急げば十分間に合う」
…十分間に合うと断言したわずか数秒後。
もしかしたら遅刻するかもしれないという可能性を助長するような事象に、僕たちは見舞われることとなってしまった。
その事象とはそれすなわち──赤信号だ。
「あーあ…」
「ま、間に合わなかったか…」
対岸に光る赤信号に足を止められ、僕と双葉は先へ進めず歯がゆさを噛みしめる。しかも最悪なことにこの信号機、一度赤になると長いのだ。
通勤中と思われるサラリーマンの乗用車や、廃材を詰め込んだ中型トラック、スクーターに乗った高校生が目の前を通過する度、僕たちは自然と焦燥感に駆られる。双葉のやつはその場で足踏みを繰り返しているし、かくいう僕も先程から嫌に腕時計の針が気になる。
「…長いよね、この信号」
「面倒な信号機に絡まれたもんだな」
しばらくの間、微妙な空気感による沈黙が続く。
気が付くと、またポツポツと雪が降り始めていた。息は段々と白く曇り、そして頬はうっすらと色づく。
「あのさ」
マフラーで口元を隠した彼女の問いかけに、僕は「なに」と短く返す。
「私、今みたいなもどかしさに覚えがあるんだ」
突然訳のわからない告白をされ、僕はどう返事していいのかわからないまま彼女の目を見た。
その瞳はひどく寂しそうで、でもそれでいて満足そうで……何というか、歪なものだった。
そして、さらに彼女は続ける。
「ずっと画角の中にいるくせに、中々触れさせてはくれない。私はずっと、眺めてるだけ。……何だかさ、この赤信号と似てるよね」
先は見えているのに、中々進むことが許されないこの状況を比喩したものか。たしかに、言わんとしていることは理解できる。
でも、僕が理解できないのは信号機じゃない方の話だ。双葉は時々突拍子もないことを口にするけど、今日はそれに拍車がかかってる。
それが降り出した雪のせいなのか、それとも何か別の焦燥感が彼女をそうさせるのか。やはり僕にはわからない。
「でも、そんな毎日もそろそろおしまい。……もう、鉄くんを外から見ることすらも、私はできなくなっちゃう」
多分、双葉は泣いてるんだと思う。小さな嗚咽を漏らし、身体は小刻みに震えている。マフラーに付着した水滴が雪によるものなのか、彼女の涙腺から溢れたものなのか──きっと後者だ。
僕はどうしてやることもできず、ただ黙って突っ立っているだけ。対岸に見える信号機は、もうとっくに青だった。
「私、冬が明ければ引っ越すことになったの」
後のことは、ハッキリ言ってよく覚えていない。
多分普通に登校して、普通に遅刻した。生活指導担当の教員から怒られたような気もしたけれど、まるで夢でも見ていたかのような心地で、お説教の内容など欠片も覚えていなかった。
その後はいつものようにつまらない授業を受け、適度にサボり、今日は悪友と馬鹿をする気にもなれず、ただひたすらに机に突っ伏し放課後が来るのを死んだように待った。
ふと窓の外を見ると、雪はまだ続いている。予報では一日快晴のはずなんだけどなと、これまた意味のない独り言で冷静を装う。悪い癖だ。
終礼の鐘が鳴り終えると、僕の足は自然といつもの席へ向かっていた。
帰り支度を始めるクラスメートの脇をくぐり、目的の座標である窓側後方を一直線に目指す。
「双葉」
足を止めた先には、今朝以来顔すら合わせていなかった幼なじみが鎮座している。まるで、僕が来るのを待っていたかのように。
「さっさと帰ろうぜ」
その一言が、今日に限ってやけに重たかった。
「そうだね。…雪、強くなる前に帰ろうか」
また、いつもと変わらない花のような笑顔。椅子を引いて立ち上がる双葉に、僕は一言注意を添えた。
「マフラー、背もたれにかけっぱなしだぞ」
「……ほんとだ、ありがと」
そう言って双葉は椅子にかかったマフラーをつまみ上げると、くるくると首元に巻き付け両手でそれを整える。
それから黙って、僕たち二人は教室を後にした。
「お母さんがね、再婚することになったんだ」
なるほどそれで引っ越すわけだと、僕は形だけでは納得してみせた。たとえそれが、どれだけ理不尽なことであったとしても。
「10年近く過ごした街を離れるんだ、やり残したこととかあるんだったら付き合うよ」
朝とは違い、とりあえず気の利いた風の返しはできるようになっている。なに、今日一日ただ死んでただけの僕ではない。日中かけて放課後の会話デッキを構築してたんだ、どんな言葉が飛んで来ようと自然に振る舞ってみせる。
そう息巻いたのはよかったものの──
「じゃあ、コンビニで何か奢ってよ」
あまりにも発言が双葉らし過ぎた。いつもの双葉らし過ぎて、肩の力がガクッと抜け落ちるのを肌で感じる。
「お前、この前も僕に奢らせたじゃないか。フェミチキ君、忘れたとは言わせねぇよ」
「じゃあ雪合戦!」
「昨日は決着つかなかったからな。こちらこそ手合わせ願おうか」
「鉄くんの恋バナ聞きたいっ」
「………それ3日に1回くらいのペースで言ってるよな」
彼女のあまりにも安上がりな願望に、気付けば僕は会話デッキなど気にせず、いつも通りのペースで会話ができるようになっていた。
今朝の思い詰めたような深刻な雰囲気はどこへやら。そこはいつもと変わらない12月の冷えた通学路だった。
「って、全然やり残したことじゃねぇじゃん。何なら毎日やってることだよ」
「それもそうだね」
双葉は相変わらず、楽しそうにケラケラと笑う。
それに同調して、僕も自然と笑顔になる。チビの頃からずっと繰り返してきたお決まりの流れだ。
「──だって、私まだまだ鉄くんと一緒にいたいんだもん。特別な何かなんて、絞れっこないよ」
そしてまた、双葉は悲しそうな顔をする。
彼女の足が地に留まったかと思うと、その訳を僕は瞬時に理解した。
目の前には赤信号。
あの横断歩道に引っ掛かってしまったのだ。
空気を読んだつもりなのか、一度赤になった信号は中々色を変えてはくれない。クラスメイトよりも一足先に学校を出たこともあり、近辺にはまだ僕と双葉以外の学生は見当たらない。
おまけに、どういうわけかこのタイミングでまた雪が強くなってきた。
小さく音をたて風に乗る雪粒は、意地悪そうな表情で僕の耳元をかすってゆく。それは彼女も同じらしく、首元に巻き付けたマフラーを少し持ち上げている。
寒そうに目を細める双葉は、気付けばまた泣きそうな顔になっていた。
こういうときのための会話デッキだろと日中考え込んだ成果を思い出すが、どうやらどこかで落としてしまったらしい。いくら考えてもかけるべき言葉が出てこない。
「…双葉」
「あのさ、私………」
互いが沈黙を破ろうとしたその時───
『あ、危ねぇッ!』
けたたましいクラクションと、何かを擦りつけているかのような形容し難い炸裂音とが辺り一帯に鳴り響き、それは一瞬のうちに距離を詰めてきた。
「双葉、危ない────」
閃光で視界が潰されたのかと思った。
耳元で聞こえる、鉄塊を挟み潰したような鈍い金属音。
真っ白になった色彩は徐々にあるべき姿を取り戻し、そして今自分の置かれている状況を刻銘に記す。
……身体中がひどく痛む。何故だか僕はアスファルトの上に叩きつけられており、立ち上がることはおろか、呼吸をすることすらもままならない。
とっさに双葉の名前を呼んでも、彼女の声は返ってこなかった。そもそも、僕がちゃんと声を出せていたのかすら怪しい。眼はかろうじて機能しているようだけど、音を拾うことがどうやらできていないらしい。何も聞こえない。
多分これ、車にでも引かれたやつだ。
そんでもって、これ死ぬやつだわ。
頭がふわふわして、苦しいはずなのに苦しくない。痛いとか痛くないとか、もうそんな次元の話じゃなさそうだな。
……やばい、そろそろ意識が薄れていって……何だか眠くなってきた……。
双葉、生きてるかな。巻き込まれてないといいけど。
あいつ、何て言おうとしたのかな。……僕の方も、何て言おうとしたんだっけか。思い出せねぇ。
『鉄くん………』
あ────死ぬ。
そこで意識は完全に途切れた。
そこは世界の裏側だった。
陽の光に照らされる高層ビルや、規則的に不規則なリズムで点滅を繰り返す信号機。路上に横たわる飲みさしのペットボトル。
そんな「現実」をそのまま形にしたような現実を、僕はどうしても信用することができない。今、この瞬間。
『待っていたよ、少年。……いや、最初に " はじめまして " と言うべきだったかな』
今僕の目の前に在るもの、それは半壊したトラックでもなければ、天の国へと続く無限階段でもない。
少なくとも、 " こんな綺麗な女の人 " を眼前にして、「ここは地獄の類か」なんて言葉は出てこなかった。
そして、ここは確かに僕の見知った───現代日本の景観そのものだったのだ。
僕はたしかに死んだはずだ。
それが、一体どうして───
『さぁ、世界が君との闘争を待ち侘びている。その身に刻んだ私からの餞別…気に入って貰えれば幸いだ』
天国とも、地獄とも思えぬあまりにも馴染み過ぎた光景。そこに佇む僕。そして、僕を手招きする一人の少女。
コスプレだろうか、その少女は何故だか光沢のある鎧で身を固めている。
───全てが噛み合っていない、いや、噛み合わせる気などはなから持ち合わせてはいないらしいこの世界で。
僕は静かに目を覚ました。