浮かぶ夕日と沈む私
白石さんとの運命の紅い糸はぷつりと切れ、私の理性を保っていた猥褻本棚は隕石によって粉々に砕け散り。私は半ば自暴自棄のようになって下宿を出た。
葉桜が朝日に照らされて揚々と並ぶ隅田川沿いの閑静な通りを歩いていると、怪しい路地裏が怪しい雰囲気を醸し出していて、私は絡めとられるように深淵へ足を踏み入れた。
埃で黒黒しく曇った窓。不法投棄される扇風機の山。至るとこに潜む猫たちを威圧しながら、私は先へ先へと歩み寄っていく。
「貴殿、なかなか酷い顔をしてらっしゃるね」
通り過ぎたはずの暗闇から水滴が落ちるように、枯れた声が響く。
「誰だ貴様はッ!」
ゴミ溜めを振り返る。
するとそこには、黒装束を羽織った茄子顔のお婆さんが、目を瞑って座っていた。
「此処に呼び寄せられたという事は、腹の中に禍々しい猛獣を飼っているということ。今なら千円ポッキリで薬を差し上げよう」
「何を言う」
「全てを魅了する幻の媚薬、欲しくはないかね」
老婆は赤黒い目を見開き、私を睨んだ。
腹の中に猛獣がいるだと?
私は眉間に皺を寄せて腹を擦る。お腹がお腹がぐうぐうと鳴り響いた。
「はっはっは。くれぐれも自分で飲むのではないぞ」
老婆はガラス瓶を投げ渡し、顔を歪めて微笑む。
「ちょっと待って、まだ買うと決めた訳じゃ……」
「貴殿にはいずれ再び出会うだろう。その時に請求致すよ」
老婆が指を鳴らすと、轟轟とした風が響き、鐘の音が耳を貫く。
路地裏のチラシは吹き飛び、黒猫の姿は消え去り、私は葉桜の樹に放り出された。
目の前に路地裏は無く、隅田川がちろちろと囀るのみであった。
「嗚呼、実にミステリー」
咄嗟に握った拳には、『幻の媚薬』と書かれた胡散臭い瓶が揺れている。
★
私は駆ける。廊下を駆ける。魂を燃やす。
呼吸も出来ず、二度三度と無く、口から血が噴き出た。
「ああ、佐久間先生」頭の中のメロスが呻くような声が、風と共に聞こえた。
私は奴の縮れたセーターを剥ぎ取り、胸の張り避ける思いで、地平線の果ての教室を見つめる。
「いや、まだ私は沈まぬ」
最後の死力を尽くして、疾風の如く私は走った。
《《全ては白石さんに媚薬を飲ませる為に。》》
「ゲッ、また猥褻先生かよ」
「少し黙っていろ」
私は喚く生徒の衣服を剥ぎ取る。
殆ど全裸体となった教室に、甲高い声が沸いた。
生足の透き通った女子共を蹴散らし、白石さんの机に手を伸ばす。
そこに白石さんはいなかった。
私は全てを察し、ボロボロに溶け落ちたアイスのように泣き崩れた。
掴んでいた媚薬を床に叩き割ろうと暗い天井へ掲げる。
だが……出来なかった。
私は大粒の涙で水溜りを作りながら、瓶を抱擁する。
「先生、どうしたんスカ?」
優しい声が肩を撫でる。振り返ると、黒髪の美少女が立っていた。
「貴様ッ!西嶋氏の差し金だな!」
私は牙を剥き出しにする。
「え?」
「いいだろう!受けて立とうじゃないか!」
私は彼女の麗らかな首を突き刺すように指を立てる。
「次の時限は体育か……ならば今すぐ体育倉庫に来るのだ」
☆
猥褻本棚の崩壊により水素爆発した我が性欲は、愛する人の消失により無差別射撃テロと化していた。こんな私では、没落など稲妻の如しである。
「先生、こんな場所で何の用です?」
埃の被ったボールを淡々と倉庫の床に打ち付けていると、糸筋のような眩い光が差し込んだ。「来たね」
「どうせ君は誘惑する気なのだろう」私の眼鏡がスッと煌めく。
「それならばいっそ!全力でぶつかってやるッ!」
私は瓶の中身を喉にゴクリと通す。
焼け付くような苦い味が全身に侵食し、私の中のメロスが斜陽を目指して熱く立ち上がっていく。
腰がガクガクと震え、何度も崩れ落ちそうになった。
気が付くと私は、獣のように白い吐息を漏らしながら彼女に飛び掛かっていた。
「僕男ですよ、先生!」
「性別など、どうでも良いのだ!私の欲求を満たしてくれ!」
私は彼の柔らかな唇を奪い、一方的に舌をねっとりと絡ませた。
彼は瞳を赤らめ、その細い指で自らの腰をふわりと擦る。
「僕、なんかココが疼いて……」
「興奮するだろう?幻の媚薬、とくと味わい給え!」
私は彼の透き通った顎をくいっと上げ、富士山の如く腰を突き上げた。
ここで私の手首と彼の胸板が触れた。
読者には弁解の余地もない。
何故ならこれは私の流星の如き意志であり、必然であるからだ。
「はぁ……んっ、はぁ」
蒼い顔で倒れるメロスと、白い粘液の海に沈んで眠る半裸の短髪美少年。
正気に戻った私は、一刻も早くこの場を立ち去ろうと後ずさる。
しかし、倉庫はバラバラに分解されてゆき、私は地獄のような暗闇に堕ちていった。
闇の底は提灯がぽんぽんと灯り、肉や魚の美味な匂いが鼻に香る。
私は座布団の上に尻餅をつき、座卓の皿がかしゃりと揺れた。
「貴方随分酷い顔をしてらっしゃいますな」
周りを見回すに、私が堕ちた先は地獄ではなく、隅田川を緩やかに流れる屋形船の上のようだった。
そして、座卓を囲むように椎茸を貪り食っているこの男は間違えようもない、西嶋氏であった。
「媚薬の旅は楽しかったでしょう。千円頂戴しますよ」
いつの間にか私の財布は抜き取られ、西嶋氏は妖怪のように微笑んだ。
「野郎、図っていたのかッ!」
「何の事でしょう?私は迷える子羊を導いただけですよ」
西嶋氏は高層ビルの合間の夜空に映る花火を、にやにやと眺める。
「でも、災難でしたね」
「全て貴様のせいだ」
西嶋氏は首を傾げる。
「貴方が先程かぶりついた彼の事ですよ。大好きな先生を慰める為に女装をしただけなのに」
私は茫然と口を開ける。
「……貴様が呼び出した妖怪ではないのか?」
西嶋氏は歯を見せて立ち上がったかと思えば、椎茸の皿を持って踊りだした。
「へっへっへ。貴方は自分を心の底から愛していた二人を、自分の意志で踏みにじったんです。偶然なんかじゃないぞ。僕はきっかけを与えただけなんですから」
私は深海の暗い水で押し潰されていくような絶望が、身体を這い上がっていく。
そんな感触を覚えた。
「……ちょっと待て。お前は一体何者なのだ?」
遠ざかっていく西嶋氏に、私は手を伸ばす。
「僕は白石さんの父親だ。貴方のような野獣を家族に加えなくて良かったわい」
私は暗い海の底へごぼごぼと沈んでいく。
水面に映る西嶋氏のにやけ顔の幻影が、海坊主のように肥大化して私を睨んだ。
✿
「魔族は誰も彼も腹の内に凶悪な猛獣、即ち悩みを持っています。悩みの強い魔族こそが闇の力を蓄え、魔王となれる訳ですね」
浅草の隅にひっそりと佇む薄暗い飲み屋。
私は彼女を待ちながら、隣の席の話し声に耳を傾けていた。
どこか懐かしい、それでいて聞いたことがないような低い声。
「ごめんなさい、僕着替えに遅くなってしまって」
私は小刻みに漏れる吐息の方をゆっくりと振り返った。
「いや、私も今来たところだからね」
あの美青年は、私が自主退職に迫られた後も、怒らず背中に寄り添ってくれた。
私は薬指に溶けていく薔薇柄の指輪を見つめる。
……白石さん一筋だった去年までは考えられないことである。
西嶋氏は屋形船での一件以降、顔も合わせてはいない。
「貴方と白石さんとの恋路を、僕は全力で邪魔します」
最近やっと、彼の悪夢を見なくなった頃である。
白石さんとの運命の紅い糸が途切れてしまった事は拭えない。
しかし、教師と生徒という関係で外堀を埋めていたところで、私は彼女と付き合えていただろうか。そんな御都合主義は存在しない。
そんな気持ちを悶々と抱えていると、私の尻から延びる紅い糸はいつしか悪魔の尻尾のように、黒黒しく変色してしまった。
この糸も、別の誰かと繋がっているのだろうか?探す気力も残ってはいないが。
「ところが僕には親友が出来ました。とある小説の言葉を借りれば、運命の黒い糸で結ばれた親友が。晴れて僕の悩みは無くなり、人間に成った訳です」
隣の席ががやがやと騒がしい。
私は酒が飲みたくなって、店員に注文しようと手を伸ばす。
「すみません、麦酒を一杯」
「失礼、僕はビールが飲みたい」
手が触れた。
ただ一つ気懸りなのは、隣で騒ぐ男がまるで別人のように人間臭い西嶋氏であったこと。そして、ガラス瓶に映る僕の顔がかつての西嶋氏のように妖怪面を掲げていたことである。
「あら、誰かと思えば我が親友じゃないですか」
「そんな奴、私は知らん」
最後まで閲覧頂きありがとうございます!
今後も縁がありましたら宜しくお願いします!
@pen28guin