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初期微動継続時間

 「寂れた商店街の古本屋。本を取ろうとしてふと手が重なる」


 古典的で情緒溢れる素晴らしい演出である。

21世紀の人類が誇るべき偉大な一文と言ってもよいかもしれぬ。

 事実、私は寝間着姿で意気揚々と自宅を飛び出し、この神のようなシチュエーションの体現者となるべく駅前へ駆け抜けた。


 本棚に手を伸ばすだけで運命の赤い糸が結ばれるはずがあるまい。

所詮は漫画や小説、ヴァーチャルな空間でしか起こり得ない事象である。

そんなこと、既にご承知である。ご承知の上で、手を伸ばし続けるのだ。

言うなれば、私は愛に飢えていた。


 そして二人の手が触れた。

ただ気懸りなのは、ふと横を見ると出っ歯の壮年男性が微笑んでいたこと。そして、掴んでいる小説がイカにもタコにもな官能小説であったことだ。

「誰かと思えば、歴史科の佐久間先生じゃないですか」

「そういう君は、物理の西嶋氏」


 『この店に永く居座ると、妖怪面の男と末永く結ばれます』

全国の古本屋はこうした注意書きを壁に満遍なく張り付けて欲しい。

さもなくば、私のような妖怪被害者が続出し、浅草を悔し涙で沈めることだろう。

これが利用者の総意であるが商店街はどうお考えなのであろうか。

「あんたも由緒正しき馬鹿ですねぇ」西嶋氏がにっこりと歯を見せる。


 西嶋氏は、私と同輩の科学教師である。

貧相な狐のような顔達で廊下を徘徊し、生徒を震え上がらせることを日課とする。

無断で実験室に猫を飼っており、試験管に猫分子が混入している。

『シュレディンガーの猫』と称して生徒たちを実験室から排他し、そのまま飲み屋街に消えていく。

噂はかねがね聞いていたが、私は東京では近年稀に見る君子であるので、危うきには近づかないよう石橋を叩きに叩いて威嚇していた。


「こうして出会ったのも多生の縁ですよぉ、飲みに行きませんか」

雷門を潜り抜け、隅田川に流れ着いたのは西嶋氏の提案によるものであった。

私は月夜と川の狭間で抱擁する男女の紅い糸を断ち切りながら、西嶋氏に口を尖らせる。

「オイオイ、こんな橋の上に居酒屋などあるものか」


「それはどうですかねぇ」西嶋氏は軽やかな妖怪のように私の袖を掴み、石油のような黒黒しい川面に身投げした。橋に上着がパサリと舞う。

「なにをするッ」怒鳴る隙もなく私の頬は西嶋氏の冷たい手に噤まれ、身動き一つとれずに落ちていく。


私は俄かに感づいた。

西嶋氏は地獄の使者で、私を暗い川の底へ堕とそうとするつもりなのだ。

思い当たるフシなどありすぎて困るッ!


私という猥褻艦隊が沈没した先は、提灯の光溢れる木組みの座敷であった。

西嶋氏は悪魔のような目つきをして嘲笑い、座卓には次々と料理が運ばれてくる。

(走馬燈か?ありもしない妄想を創り出す程に私の心は廃れていたのか?)


そう周りを盲目的に見渡す私に、西嶋氏は盃を手渡す。

「そう構えないで。パーっとやりましょうやぁ!」

どうやらここは、隅田川をゆらゆらと漂流する屋形船の上らしかった。


男二人の会話といえば、色恋沙汰に始まり色恋沙汰に終わるのが通常である。

私もその慣習に則って、「自分未だに童貞ナンス」と呟こうとした。


しかし、西嶋氏は私の核心を突くような言葉を口ずさむ。

「あんた、自分の生徒に恋してるでしょう」

「ままま……まさか」核爆発しそうになる心臓を押さえて、僕は顔を赤らめた。

「モテない男ほど嘘が下手ですねぇ。僕は四六時中あなたのクラスを覗き込みますけどね、正直見るに堪えないですよ。教科書も上の空で鼻息を荒げ、目を充血させて……」

私は自分に戦慄する。


 白石さんは実に可憐な少女である。

誰をも寄せ付けぬ氷河のような絹を身に纏い、その瞳は見るもの全てを凍り付かせる。

仮に彼女に告白するような者がいれば、一週間後にはスキー場の人工雪となって志賀高原に配送されるであろう。

私も教壇から彼女を見惚けて、願わくばその柔い脚で踏みつけて欲しいと願ったものだ。


「たぶん彼女、貴方の事が好きですよ」

西嶋氏は椎茸をがつがつと頬張りながら、私を貫く。

「本当か!」私は唖然と口を開け、座卓を揺らして立ち上がる。

「その薄汚れた顔のどこに惚れたのか分かりませんですけどねぇ」


「そして僕は、貴方と白石氏の恋路を全力で御邪魔します」

「はぁ?」私は眉間に皺を寄せる。「私が恋をする事と、お前が邪魔することと。何の関係があるんだ?」

「この世は無限です。関係性なんて考えてたら阿呆になりますよ」

西嶋氏はカツ丼をばりばりと平らげる。


「待て。お前は私が嫌いなのか?」

西嶋氏は箸を止めて言った。「いえ。どっちかと言えばライクです」

私は指を鳴らす。「分かったぞ。お前も白石さんの事が好きなんだな」

「まあ、そういうことにしといてく下さいな」


「兎にも角にも、僕は貴方と彼女の運命の赤い糸を、全力でぶち斬ります」

そう声を張り上げると、西嶋氏は暗い川底にふっと消えていった。

座卓には領収書がひらひらと舞い上がった。

裏には、「お会計宜しくお願いします」と血を沸騰させるような絵文字と共に書かれていた。

「野郎、これが目的か」



 その日、私は西嶋氏が夜の襲来を仕掛けてくるのではと、布団の上で腕を組んでひたすら待った。

しかし、待てども待てども妖怪は来ないので、やがてぐうぐうと寝た。


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