第三話第三王子と咽び泣き
エルドードが食事を拒絶してから数日、エルドードの部屋には様々な王城御用達の乳母が、エルドードに乳を与えようとしていたが、結局、誰一人としてエルドードに乳を飲ませる乳母はいなかった。
乳母どころか、第一王妃の乳すらもエルドードは飲まなかった。
乳を飲まないエルドードは、日を重ねていく事に弱り、それと同時に、第一王妃もまた、日を重ねていく事に弱っていった。
弱った王妃は、現在寝込んでいる。彼女の傍らには、一冊の本が寂しそうに置かれている。
タイトルは【エルドードの寝顔日記】、王妃の細やかな夢。しかしその夢は、叶いそうにない。
深夜、エルドードの部屋の中で、一人の侍女が静かに涙を流していた。
彼女の名前はアリーラ、アリーラ・リリステルス。エルドード王子専属侍女の一人。
アリーラはエルドードの寝顔を見ながら、ただ静かに涙を流す。
無表情が常の彼女も、今はその鉄仮面を脱ぎ捨てて、悲しい顔で泣いていた。
(おいたわしや、エルドード様。こんなにも痩せてしまわれて……)
アリーラはエルドードの痩せた頬に触れる。
日にちが増す事に痩せていくエルドード、最早あと少ししたら死んでしまうだろう。
それでも尚、彼は拒み続けた。
(ああ、主よ。偉大なる我らの主よ。どうか、どうかエルドード様をお助け下さい)
アリーラは祈る、両手を組み必死に祈る。
悲しみの涙を流しながら、ただ祈る。
今この場には、エルドードとアリーラしかいない。
だから彼女の祈りに気付く人間はいない。
だから彼女の祈りを叶える人間はいない。
気付く人間はいなかったが、彼女の祈りは届いた。
エルドードの大事な人達に、彼女の祈りはしっかりと届いた。
暗闇の中、誰かの気配をエルドードは感じる。その誰かの気配は温かく、優しい。だからエルドードは、その誰かに取り囲まれても、不安は感じなかった。
『□□□□、折角生まれ変わったのに、何してんだよ馬鹿兄貴』
誰かが言う。
『□□□□、死んでは駄目よ?』
今度は違う誰かがエルドードに言う。
『おーい□□□□! 死んじゃ、めっ、だよ!』
誰か、いや、この声は。
『□□□□、生きなさい。私達の分まで、幸せに生きなさい』
その声を聞いて、エルドードは気付く。その誰かの正体に、気付く。
レイアス。年上を兄貴、姉貴と呼び慕い、年下の子には優しく接していた頼りがいのある少年。だが意外な事に雷の音が苦手で、雷雨のその時だけは、いつもの頼もしさは無くなり、年下の子と一緒に震えていた自慢の弟。
シスタークリスス。凛とした顔、時々新しい孤児を拾っては、助けてくれる心優しい女性。シスターリリスと一緒に、冒険者ギルドで金を稼いでは、孤児達に美味しい食べ物をくれる。彼女は孤児達の姉であり、自慢の母親。
シスターリリス。いつもにこやかとしていて、危ない事をする子には、優しく、めっ、と言いながら叱ってくれる。□□□□が年下の子に血を飲ませたその時ばかりは、□□□□はたっぷりと怒られた。彼女もまた、孤児達の姉であり、自慢の母親。
プリーストギガロス。人一倍厳しく、人一倍優しい、冒険者ギルドの依頼で怪我をしても、それでも皆の為に必死でお金を稼いでくれた。必死で皆を助けてくれた。孤児達の、最愛の父親。
エルドードは思い浮かべる、彼らと過ごしたその日々を、その日常を。
『兄貴、俺の分まで幸せに生きろよ! 絶対だかんな!』
声が聞こえる、この声はレイアスの声。レイアスの笑ってる顔が思い浮かぶ。
『何時でも見守っています、□□□□。幸せに生きなさい』
声が聞こえる、この声はシスタークリススの声。凛としたシスタークリススの顔が、エルドードの頭の中で浮かぶ。
『□□□□、いつも元気ににこやかに! 死んじゃ駄目! 一杯食べて一杯生きて!』
声が聞こえる、この声はシスターリリスの声。おっとりとしたその声を聞いて、にこやかなシスターリリスの顔が見えた気がした。
『主と共に、私達は見守っています。□□□□、あなたは一人じゃありません。私達が、何時でも、何時までも傍にいます』
声が聞こえる、この声はプリーストギガロスの声。優しい笑みを浮かべたプリーストギガロスと、三人がエルドードを取り囲んでいる。
エルドードの視界は暗闇のまま、でもエルドードには、見えなくても分かった。
声が聞こえる、彼らの声が、皆の励ましの声が、思いやりの声が、優しさに溢れる声が、エルドードを包み込む様に、響き渡る。だから見える、彼らの笑顔が、優しい顔が。
エルドードはゆっくりと目を開いた。
深夜、暗闇の部屋の中、窓から月の光が差し込む。そのうっすらとした光で、天井の絵画が見える。
神様が微笑んでいる。
優しく微笑んでいる。
その神様の微笑みを見て、エルドードは赤ん坊の様に泣いた。
「エ、エルドード様!?」
突然泣き出したエルドードを見て、アリーラは驚愕の声を上げる。
今まで泣かなかったエルドードが、今始めて泣いたのだ。
故にアリーラは、暫し呆然とする。しかしすぐに意識を取り戻すと、廊下で待機していた侍女マーラにエルドードの護衛を頼み、アリーラは乳母を呼びに駆け出した。
残されたマーラは大変大変。
急いで、けれどエルドードに負担がかからない様に抱き抱えると、ゆっくりと左右に揺らす。
「はーい、エルドード様、大丈夫ですよーマーラが居ますからねー。よーしよしよし」
マーラがあやすも、エルドードは泣き止まない。
「ほーら、べろべろばー…………駄目ですか」
必死にあやすマーラ、その努力も空しく、エルドードに効果は全然無い。
エルドードは泣き叫ぶ。
大事な人達の思いやり、優しさ、そして愛情を受けて、エルドードは泣いた。
嬉しくて泣いた。
けれどそれと同時に、大事な人達が死んでいたと知って、エルドードは泣いた。
悲しくて泣いた。
嬉しいのに悲しい。その日エルドードは、人間は、二つの感情を同時に感じる事が出来ると知った。
嬉しくて、悲しくて、泣き叫ぶエルドードを、神様が優しく見守っていた。
▲ ▲
エルドードが泣き叫んで数刻、侍女に連れられた乳母は、エルドードが泣き叫ぶ姿を見て驚くも、直ぐ様エルドードに乳を与えた。
エルドードは素直にそれを飲み、乳母、そして侍女も、ほっと一息を吐いた。
現在、まだ深夜、エルドードは乳を飲むと直ぐ様眠り、今は幸せな寝顔を浮かべては安らかに寝息をたてている。そんなエルドードを見詰めるアリーラとマーラは、片や無表情、片や笑顔を浮かべて、エルドードを優しく撫でる。
「……いやー、エルドード様は可愛いねー?」
エルドードに配慮して、マーラは小声で言う。
「……そうですね、エルドード様は、まるで天使の様な愛らしさがあります」
アリーラもマーラと同じように小声で言う。
二人はエルドードは見詰め続けては、幸せのため息を吐いた。
(エルドード様、ああ、こんなに愛らしい寝顔が見られるなんて、私、幸せだわ)
アリーラはそう思った。
(赤ん坊の寝顔ってやっぱり可愛い、エルドード様が成長する前に、目に焼き付けておかなくちゃ!)
マーラはそう思った。
どっちも似たり寄ったりな考えだった。
アリーラとマーラ、現在夜間担当の侍女である彼女達は、来週には昼間担当の侍女に変わる。週事に担当が変わるので、今週が終われば一週間はエルドードの寝顔が見れない。
(……一週間エルドード様の寝顔は見納め、耐えられるかなー私)
マーラは、うーん、と唸りながら考える。
エルドード王子専属侍女、彼女達にとってエルドードが絶対、エルドードが史上、例え国王や王妃の二人よりも、エルドードを優先する。そういう風に教え込まれたのが彼女達だ。
故に、エルドードが弱っていた時、アリーラは泣き、マーラは笑顔が消え、他の侍女達も様々な変化が起こった。エルドードを不気味に思ったレリーナでさえ食欲が失せ、一日一食という事態に陥ってしまったというのだから、彼女達の忠誠心は計り知れない。
(いや無理ね、耐えられる自信がない)
だからこそマーラがそう思うのも、仕方がない事なのだ。
彼女達の忠誠心は、エルドードが死にかけた事で、劇的に上がってしまった。
最早エルドードに対して彼女達は狂信している。しかし悲しいかな、エルドードは金持ちが嫌いなのだ。
良い服着てる侍女達が嫌いなのだ。
「……何してるのアリーラ?」
「エルドード様の寝顔を描いてる」
そう言いながら、アリーラはペンを走らせる。
「相変わらずアリーラは器用ね……所で、私の分も描いて欲しいなーなんて」
「良いですよ」
「わーい、ありがとーアリーラ!」
マーラは笑顔を浮かべると、アリーラに抱き付こうとした。
アリーラに顔面を掴まれた。
「…………」
「揺らさないで下さい」
アリーラはそう言うと、再びペンを走らせた。アリーラの前に、エルドードの寝顔が徐々に完成していく。
(王妃様の分も描かなくちゃいけないわね)
エルドードが侍女達を嫌っている事を、彼女達は知らない。知る筈が無い。
彼女達の全てと言っていいエルドードに嫌われてると知った時、果たして彼女達はどうなるのか。狂信は、一体何に変わるのか。
ただこの時だけは、彼女達は平穏な時間を過ごしていた。
エルドードの寝顔を見詰めながら。