第一話王妃様の細やかな夢
シュランド王国王城、その王城の内部にある長い廊下を、満月の光に辺りながら一人の女性が優雅に歩いていた。
銀髪のロングヘアー、赤い吊り上がった瞳、闇夜に溶け込む様な黒いドレス。
その女性の表情はだらしなく緩み、しかしそれでも尚美しい。
女性は、はっとした顔になると、顔を勢い良く横に振る。そして胸に抱いている本に目を向けると、まただらしなく顔が緩んだ。
廊下を歩いている間、ずっとそれの繰り返し。
彼女はシュランド王国現第一王妃、エリザナ・シュランド=ラジスラジス。
かつて彼女が公爵令嬢だった時に、ありとあらゆる男性を魅了し、一度目にすればもう目を離す事は出来ない、王国の黒蝶とまで呼ばれていた。それほどまでの美貌を持つ彼女が、何時もの凜とした気品溢れる顔を自ら崩している。
でもそれは仕方がない事、彼女が抱いているその本は、彼女にとって宝物、いや、これから宝物になるであろう一冊なのだ。
その本のタイトルは、【エルドードの寝顔日記】。
執務で忙しく、産まれたばかりの子供に会えない王妃が、せめて寝顔だけでもと、そう思い前々から用意していた日記。
体質なのか、中々子に恵まれなかったエリザナが、半場諦めていた細やかな夢が、今叶うのだ。
「ふふ」
楽しみからか、口から笑いが漏れる。
それに気が付き、エリザナは益々嬉しい気持ちで一杯になる。
「随分と楽しそうだなエリザナ」
と、そんな彼女に声をかける一人の男性。
太陽の様な茶髪、金色の瞳、一目見ただけで高級だと分かる服装に身を包んだ男。
彼の名前はフィリプド、王国の獅子フィリプド・シュランド=ラジスラジス。
数多の令嬢を虜にした罪深き男、その魅力的な容姿は年をとって尚衰えず、老練とした美しさを放っている。
かつて王国の黒蝶と呼ばれた彼女を愛し、愛され、王の黒蝶と呼ばれる様にした幸運な男。
その彼が、愛しき妻に微笑みながら歩み寄る。
エリザナはフィリプドの方に振り直ると、だらしなく緩んでいた表情を引き締めた。
「フィリプド、こんな夜分遅くにどうしたのですか?」
「ふっ、さっきまでの緩んだ顔は見せてくれないのか」
「……あ、あ、い、何時から、何時から見ていたのですか?」
「私の寝室の前ぐらいから」
フィリプドは笑いながら言う。
フィリプドの寝室の隣は、エリザナの寝室、つまり最初から見られていたという事だ。
エリザナのだらしなく緩んだ顔や、時折鼻歌を歌ったりしていた場面を。
その事に気付いたエリザナは顔を真っ赤に染める。よもや自分の愛しい人に恥ずかしい姿を見られてしまったと、羞恥に燃える。
羞恥心が燃え盛る。
「そんなに恥ずかしがる事は無い。愛しき妻の姿は、全て美しい」
「貴方は良くても私が嫌なのです! 何でもっと早く声をかけて下さらないのですか!」
「それは……」
フィリプドは言い淀むと、微笑みをエリザナに向け、言葉を続ける。
「はしゃいでいるお前の邪魔をしたくなかった。というより、はしゃいでいるお前の姿に見惚れていた」
「なっ……!」
真っ赤だった顔が、更に真っ赤になる。
フィリプドは顔を真っ赤に染めるエリザナの手を握ると、ゆったりとした足取りで歩き出した。手を握られたエリザナも、フィリプドにあわせる様に歩き出す。
暫しの沈黙、二人はゆったりと歩く。
廊下は長いが、産まれたばかりのエルドードがいる部屋まではすぐ近く。
二人は歩く、歩いて歩いて歩いて。
そしてエルドードの扉の前についた。
フィリプドが扉に手をかけ、エルドードが起きない様にゆっくりと扉を開ける。
部屋の中には、エルドードが寝ている赤ん坊用のベッドに、様々な赤ん坊用の玩具。そしてエルドードを護衛する侍女が一人、エルドードの傍で佇んでいる。
侍女は最初警戒していたが、それがフィリプドだと分かると一礼し、部屋の隅に移動した。
フィリプドとエリザナは、エルドードの寝顔を覗き込む。
母親譲りの銀髪、父親譲りの金色の瞳は、今は瞼の下で休んでいる。
エルドードは静かに寝息をたてながら、幸せな顔を浮かべては時折笑う。
そんな我が子の寝顔を見て、二人は小さく、幸せのため息を吐いた。
フィリプドはおもむろに我が子に手を伸ばすと、その髪の毛に触れる。エリザナと同じ髪の毛を触り、ああ、私とエリザナの子だ、と、嬉しく思った。
第一王子チャールド。
第二王子アンドリード。
その二人が産まれた時も、フィリプドはとても喜んだが、エルドードの時は、二人が産まれた時よりも喜んでしまった。
チャールド、アンドリードとは違う。エルドードはフィリプドにとって特別なのだ。フィリプドの幼馴染み兼初恋の女性であるエリザナとの子供。
エリザナだけじゃない。フィリプドも欲した息子がエルドードなのである。
だからこそフィリプドは、彼女と同じ髪をしたエルドードを優しく撫で、愛すのだ。
エルドードを見詰めるフィリプドの金色の瞳は、優しさに溢れていた。
そんなフィリプドの様子を見て、エリザナも同じようにエルドードに手を伸ばす。
自分と同じ銀色の髪、父親似の顔、幸せそうな寝顔。
二人は幸せな気分になりながら、エルドードを優しく撫で回した。
(およよ、王妃様、あんなに幸せな笑みを浮かべて)
無表情を張り付けた顔の侍女は、内心で咽び泣く。
(ここ最近は顔色も悪く、少しばかり痩せた王妃様が、あんなにも元気になられて)
よかったよかった、と、侍女は無表情のままそう思った。
それは彼女の本心である。
彼女は見てきたのだ。子が中々産まれず、徐々に弱っていくエリザナを、ただ執務をし続けるエリザナを、ここ最近、笑わなくなったエリザナを、しかし今のエリザナは、顔色は良くなり、無茶な執務を止め、良く笑う様になった。
(願わくは、このままこのお二人の幸せが続きます様に……)
侍女は静かに祈る。勿論内心でだ。
侍女は先程から微動だにしていない。
だから侍女のそんな考えに、二人が気付く事は無い。
だから侍女のそんな思いに、神様が気付く事は無い。
寧ろ侍女の願いとは裏腹に、王城に最悪が巻き起こる。
▲ ▲
王城内部、王妃の執務室。
きらびやかな絨毯、職人が拘って造ったであろう木製の机とフカフカな椅子。その後ろにある窓からは、暖かな日の光が差し込んでくる。
王妃が執務をこなせる様に、という配慮に溢れたその一室で、王妃が絶望に満ちた顔で立ち尽くしていた。
勢い良く立ったのだろう。椅子は王妃の後ろで倒れている。しかし王妃は椅子が倒れ事も気にせず、口を開く。
「そ、それは本当の事なのですか?」
「はい、エルドード王子は、何故か乳を飲んで下さいません」
「あ、あ……!」
「王妃様!」
王妃は顔を青ざめると、ふらりと倒れそうになった。咄嗟に近くにいた侍女が王妃を支えたものの、もしも侍女がいなければ倒れていただろう。
それほどまでの動揺、王妃は、とてつもない衝撃を受けている。
(愛しい我が子が、乳を飲まない? あれ、赤ん坊が乳を飲まなかったらどうなるのかしら? 乳を飲まなかったら栄養が無くなって……)
混乱する頭で、王妃は考える。
混乱したままの頭で、王妃は考える。
乳を飲まない我が子はどうなる? 答えは単純明快、誰にでも分かる事なのに、混乱した王妃は分からない。
乳を飲まない我が子はどうなる?
(ーー分からない)
乳を飲まない赤ん坊はどうなる?
(ーー分からない)
御飯を食べないと人はどうなる?
(ーー分からない)
王妃は何が何だか分からない。
子供が中々産まれず心が軋み、子供が産まれて心が緩むと、今度は食事を口にしない。
心が軋むどころではない。王妃の心は限界だった。
「王妃様! 誰か! 医者を呼んで!」
慌ただしく動く侍女を見ながら、王妃の意識は遠退いた。