麦わら帽とホームランボール
ホームランときみ
初夏、アーケードを歩いていると「鎌田コーヒー」という文字が目に入った。緑のふちの中に黄色の文字で書いたデザイン性のない簡素な看板。それをみてわたしは初恋の人を思い出した。
これは、ひょっとしたら自分だけが感じる個人的な感覚なのかもしれないが、例えば
「少年野球」という言葉を聞くとまずはじめに坊主頭の少年が思い浮かぶ
「ライバル」という響きを聞くとちょっとおしゃれなツンツン頭の少年が思い浮かぶ
そういう感じで、
「鎌」という文字は初恋の人の名前の一部なので、「鎌」という文字を見かけるとわたしの場合は初恋の人が浮かんだ。
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人間が無意識に考える物事には多くの場合きっかけがある。最初にそれらの「アイコン」とも呼ぶべき、きっかけを見たり聞いたりして五感で触れると、それが個人的な連想を引き起こし、ものを考え始める。
今日はそれが「鎌田コーヒー」の看板だった。
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ぼくは小学生の頃に野球をしていた。あまり上手ではなかったが、六年生でレギュラーになることもできた。当時の夢はホームランを打つことだった。
それはずいぶんと大それた夢で
打ったボールが、大きな大きな弧を描いて、スタンドに入るどころかそのまま場外を抜けて、さらには自分の街をも越えてゆき、どこまでもどこまでも飛んでゆくような、そんなホームランを思い描いていた。
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ある初夏の日曜日だった。僕らの野球クラブがふだん使っているグラウンドで練習試合が行われた。
外野らへんの、朝のちょっと濡れた草を踏む、それぞれのスパイクはヒエラルキーそのもので、太陽はまだ眠そうにチカチカしていて、その日もまた「なんてことのない退屈な1日」が始まろうとしていた。
ジョギングをこなした後、いつものようにキャッチボールがはじまった。胸のあたりでとったボールを相手の胸へと投げる。胸のあたりでとったボールを相手の胸へと投げる。そんな単調な作業を繰り返した。あまり気の合わないチームメイトとの退屈なキャッチボール。
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そんな風にキャッチボールをしながら、ぼくの視界にはずっとグラウンドの外の駐車場がみえていたのだけど、するとそこに、一台の青色のかっこいい車がすーっと入ってきてスムーズに停車した。一瞬の沈黙のあと、助手席のドアがガチャリと開かれ、そこから可憐に女の子がでてきた。
白色のワンピースがひらり、ふわりとなって、靴も白色で、麦わら帽のようなものをかむっていて、かわいらしい女の子で、ぼくと同じくらいの年で、って、そうゆうひとつひとつの要素やら記号を視認していって、はっと気づいた。
それは同じクラスのぼくの好きな女の子だった。
彼女を彼女だと認識した瞬間、僕の投げたボールはチームメイトの頭上を抜ける大暴投となって、緑色のフェンス付近まで転がっていった。トントントンと転がっていき、フェンスの向こうの彼女もそのボールに一瞬だけ目をやった。彼女は視界に好きな男の子をみたからか、はずかしげに急いで目をそらした。
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……ややこしい話なんだけれども、僕の好きなその女の子は「ぼくのキャッチボール相手」が好きだというクラスの噂を聞いていた。彼女は、弟がこのクラブに所属している下級生なのでそういう大義名分もありつつ、おそらくはその「僕のキャッチボール相手」目当てに試合を観戦しに来たのだろう、と思った。
『じぶんの好きな人がまた別のだれかを好き』だという、古来から存在する普遍な、そういうちょっとした哀しみは置いておいて、
ポジティブに考えて、いまの僕に必要なものはホームランだと思った。
このキャッチボール相手にそそがれている彼女の視線を僕へと向けさせる、
この田舎の街の純情少年をどこまでも遠くへと連れていってくれる、
それにはホームランが必要だった。
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彼女は、レフトの横あたりの原っぱで、小綺麗で背筋のよく伸びたサングラスのお母さんと一緒に、なんだか面倒くさそうな顔を浮かべて僕たちの練習風景をながめていた。
ぼくらは試合開始15分前に休憩に入って各々が自由に水分補給などしたのだが、そんな中「キャッチボール相手」もまた、ゴクゴクと喉をうねらせて青色のスポーツドリンクを飲んだ。「ふう……」とその男の子が一息して帽子を取ったら、真っ黒な短髪があらわれた。爽やかで現代的な顔立ちで、所作に無駄のない都会的な少年。
そんな「彼」に、「僕」と「彼女」のふたりはそれぞれ別の場所から視線を向けていた。
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整列をして、練習試合が始まった。
ぼくは
第一打席、サードゴロ
第二打席、三振
かたや相手は
第一打席、ヒット
第二打席、ツーベース
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ぼくとその男の子との差は歴然としていた。
もともとわかっていた。
ぼくはただの小さな野球クラブの凡庸な野球少年にすぎない。痛烈に外野へと飛ぶ綺麗なヒットなんてのもほとんど打てないのに。ホームランなんて夢のまた夢。
そもそも野球の才能もなければ、努力も最小限しかしてないじゃないか、ぼく。
「彼」のことをライバルだなんて錯覚しようとしていたけど、家に帰ってからも毎日のように野球に向き合いバットを振っているらしい「彼」をライバルだと言えるような資格は到底ぼくにはない。
ぼくはおそらく努力をする才能もなければ、それ以上にもっと本質的な問題として、努力をしてダメだった時にそれを受け入れる精神力に欠けているのだ。
だから、なにかしなくちゃ、なにかしなくちゃ、と毎日焦燥を感じながらも結局何もせず、その日に感じられる快楽をなるべくたくさん貪っていた。
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ぼくは第三打席に立った。
ストライク。ストライク。ボール。ボール。
と、機械のように変わらないトーンでそれを言う審判の声がきこえる。続いて、その審判が「大丈夫か?」と耳元で言った。ぼくは寝転んで空を仰いでいて、心臓から鼻へとドクンドクンと血を送っていた。
どうやら顔面にデッドボールをくらったらしい。意識がとんでくれたらまだ良かった。そうすれば痛みも恥も感じずに済んだのに。
涙が出ないように目をカッと見開いて、ベンチへと足を引きずりながら帰った。すると急ぎ足でサングラスをかけたあの娘の母親がぼくの元へと来て、「こっちへいらっしゃい」とぼくをグラウンドの横の原っぱへと導いた。
ぼくは寝そべって応急処置を受けているらしい。彼女の母親の真剣な顔つきがみえる。横にはぼくの好きな女の子もいる。手を後ろに組んでこちらに視線を向けて「まあたいしたことないでしょ」というようなことを言って実にあっけらかんとしてる。
とめどなくあふれてくる鼻血だったが、看護師をやっているそのお母さんの処置のおかげで、だんだんと勢いがおさまって通常の鼻血ほどの量になった。「ありがとうございました」と言って立ち上がろうとした。しかし「まだ寝てなさい」とそのおばさんはひとこと言って、そしてどこかへと行ってしまった。その場所、原っぱには、ぼくとその女の子のふたりだけが残った。
「ナイスバッティン!!」「声出してけー!」「ドンマイドンマイ」
いつも近くで聞こえるチームメイトたちの声は、彼らの身長の高さで共鳴し合い呼応し合い、試合を離脱して寝そべっている僕にはひどく客観的にきこえてきた。その状態で空を眺めていたら、少ししてとつぜん、お母さん連中の黄色い歓声が上がった。どうやら「キャッチボール相手」がホームランを打ったようで、それで客席が沸いていた。
「大丈夫?」それまで黙っていた彼女がぼくにそう訊いた。
「身体は大丈夫。格好悪すぎて死にそうだけど……」
「野球なんて出来なくても死にゃしないよ」
「うん」
「勉強出来なくても死にゃしないし、仕事が出来なくても死にゃしない。嫌なことから逃げても別に死にゃしない。……足りないとこがあっても、人に笑われても、あなたは死にゃしないよ」
「うん」
「ただ、わたしさっきのボール探しに行ってこなくちゃ」
先ほどのホームランは野球場の奥の森林へと入り込んでしまったらしい。彼女はそのホームランボールを探しに行った。誰に頼まれるわけでもなく自らの足で。