文化祭の日(2)
前島とさんざん格闘した末に、逃げるように書道部屋を抜け出す。おにー、あくまー、三十センチ定規ー! と意味不明な罵倒が背中に降りかかるが、どうだってよいことだ。その過程でさりげなく部誌をもらっておいたが、はたして彼女は気づいていたかどうかは、知らない。
振り返っても、前島は追いかけてくる気配がなかったので、廊下を走るのはやめにした。ひとがまばらの空間をゆっくり歩く。まるで遠い記憶を呼び覚ますような喧騒のさざめきが、足元からじわり、じわり、と広がっていくと、さっきまでの時間がほんの少しだけ特別だったかのような錯覚を受ける。
はてさて。これからどうしたものか。
「おお、よもやこんなところで出会おうとは」
とつぜん背後からかかった声は、ぼくの知っている中で一二を争う変人の放ったものだった。振り返ると、高校生とは思えない貫録を身につけた、小柄な男子が立っている。それだけなら若いのによくできているのねえ、と近所のおばさんにモテそうなタイプなのだが、全身から放たれる独特な雰囲気のせいで、あやしい壺でも買わされそうな、危険なイメージをも連想させる。
「よお、地上げ屋」ぼくは彼をあだ名で呼んでいる。
「失礼な、わたしにはいちおう上地という名前がある」
「いちおうなのかよ」
「コードネームやハンドルネームは別だからね」
「あーうん、そうだね」
最後の返事は棒読みである。
この男、上地は、なんというか、とんでもないやつだ。なにがどうというのは逐一挙げればきりがないのだけど、簡単なエピソードを紹介するなら、今年度のはじめ、同じクラスの自己紹介があったときに、
『わたし、あなたがたにおっしゃりたいことが三点ありまして……』
と、なんだかセールスマンのような謎めいた物腰でとうとうとしゃべり始めたことだろう。そのとき彼が摩訶不思議な口調で語ったことは、猫が好きなことと、猫が好きなことと、猫が好きなことだった。
……いま一瞬なに言ってんだこいつ、てなったと思われるが、その反応が、まさにぼくのクラスを席巻したのである。これだけでもう、彼の凄みを紹介しきったも同然だろう。ちなみに地上げ屋という謎めいたあだ名は、彼が二年生のときにSF同好会を買収したことからついている。
「ていうか、なんでおまえ、こんなところにいるんだよ」
「え、聞きたい? ほんとうに?」
「いや、いいです」
「まあまあお客様、ここはどうかわが社のプランをお聞きになってから……」
「知らねえし知りたくねえ! つうかどっからそんな文句憶えた!」
「ああ、お客様はコールセンターというものをご存じではない?」
ちきしょう、やっかいなものにひっかかった!
「……とまあ、冗談はさておき、用件に入ると、夕夏さんを招待していたんだけどね。離れ離れになってしまったんだ」
「夕夏さん?」
「ああ、弟子だよ」
「弟子」
「うん、弟子」
「へえ」
「今年の春ぐらいからの付き合いだね。けっこういい感じ」
あ、いたいた、と地上げ屋が手を振ると、それに招かれたように小柄な女子がやってくる。ポニーテールでけっこうかわいかった。
「ああ、紹介するよ。夕夏さん。で、こっちがメガネ」
「ちゃうわ、奥村一生だ」
「すまない……これでは全人類メガネ属に失礼だった。この茶ぶちの」
「説明せんでええわ!」
これじゃあまるでコントだ。しかも不気味というか、なんというか、相手のほうは淡々としている。慣れてるんだろうなあ、きっと。こんなテンションに慣らされた彼女がちょっと不憫な気もする。
と、思うなり、夕夏さんも十五度ぐらいの浅い礼をして、どうもこんにちは、と言った。
「なんていうか、類は友を呼ぶっていうのね」
いきなり残虐なひと言であった。
というか、その言葉そのままお返ししたい。
「おお、やっぱりそう思うか。よかったよかった」
上地は喜んでいる。まるで獲物を見つけたチーターのような笑みだ。よかったのかよ、よくねえよ。そう文句をいうと、彼は、んーまあそうだねえ、何事もよいに越したことはないからねえ、と答える。うわ、めんどくさい。
「それはそうと、われわれはこれから美術部と鉄道研究部に向かうのだが、そなたもよければ来ないか?」
「いや、いいよ。せっかくのデートを邪魔しちゃ悪いし」
「きさま! わたしのついだ酒が呑めんというのか!」
「いやまだ未成年でしょ!」
これ以上振り回されるのはごめんだったので、ぼくは逃げ出すことにした。まだ昼が過ぎたばかりで、文化祭はこれからが本番みたいなものだった。